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Story 3 身体感覚で味わう美術作品

布施 英利(芸術学者・批評家)

2015年1月1日 更新

布施 英利 芸術学者・批評家

このコーナーでは、教科書教材の作者や筆者をゲストに迎え、お話を伺います。教材にまつわるお話や日頃から感じておられることなどを、先生方や子どもたちへのメッセージとして、語っていただきます。

中学生には、この教材をどのように読んでほしいとお考えですか。

実際の授業では「最後の晩餐」という絵と僕の文章を照合しながら読み進めていかれると思います。それと同時に、例えば、「中央の人物が何か言っているな」とか「ざわめきが広がる」というような解説の一つ一つの言葉をビジュアルに翻訳しながら、絵を頭の中で思い浮かべて読んでいってほしいと思っています。
これは僕が美術の本を読むときによく感じるんですけれど、言葉だけをたどって読んでいると、何のことを言っているのかわからなくなってくる。言葉を言葉として理解するのではなくて、具体的なものや光景としてイメージしながら読むということが、特に美術評論などの場合は大事ですね。
それから、この教材の学習内容からずれるかもしれませんが、自分でも何か好きなものを一つ取り上げて、「君は○○を知っているか」という文章を書いてみてほしい。そうすると、書いた後、もう一度この教材文を読んでみると、理解しやすくなるんじゃないかと思うんです。

布施 英利(芸術学者・批評家)

「君は~知っているか」というタイトルは、刺激的でおもしろいですね。

みんなが知っているようで、実はよく知らないこともある、という投げかけです。
「最後の晩餐」という絵は、ほとんどの人はどこかで見たことがあるんじゃないかと思います。でも僕が伝えたかったのは、“本当の「最後の晩餐」”を知ってるかということです。

“本当の”とはどういうことでしょう。

「本当に、よく見たのか」ということです。

「よく見る」ということは簡単そうで、実はなかなか難しいことだと思うのですが、何かヒントがあれば教えてください。

「よく見る」というのは、例えば、ここには赤い絵の具が塗ってあるな、その横に緑の絵の具が塗ってあるな、線が引いてあるなとか、そういうことを一つ一つじっくり見るということです。
「あ、これは顔だ」などと「言葉」で見るんじゃなくて、一つ一つを目に焼き付ける。色や線がどのように組み合わさって画面ができているのか、などということを繰り返し見ていくと、絵がよく見えてきます。彫刻だったら、木や金属や石などという材質も見てみましょう。よく近づいてみたら、木の堅さとか、木目が見えるとか、石ならば、中に点々と黒い模様などが混ざっているかとかですね。削った跡も残っているとか、ツルツルに磨いてあるとか……。そういう一つ一つのディテールを見るんです。実際にやってみると、本当に楽しいですよ。

一つ一つのディテールをじっくりと見ることが大事なんですね。

よく見ていくと、作品が作られた過程も見えてくるんです。
ニューヨークにあるイサム・ノグチ美術館に行ったときに感じたんですが、その作品に向き合ったとき、イサム・ノグチが金槌とノミでコンコンと彫っている行為が身体の感覚として伝わってきたんです。毎日毎日、何を考えているのかわからないんだけれど、コンコンと石を彫って、それで一日が終わって、また次の日もコンコンと彫り続ける…。何か、それを追体験する幸せを感じたんですね。
あとで冷静に考えてみると、例えば人が石を彫るという行為は、何万年も繰り返してきていることなんだと思い当たった。何万年も人間は石を削り続けているんです。それが今は彫刻家とか、限られた人がやっているだけなんだけれど、長い長い間の記憶が僕の体の中にも残っている。だから、イサム・ノグチの彫刻から、彼がコツコツ彫っているだけの時間ではなく、その背後にあるもっと大きな時間も見えてきたことに感動したんですね。

それは作品が、想像力をかきたてるということでしょうか。

想像力というよりは、作品に圧縮されていたものが、見る者の身体感覚として解凍されて感じられてくるということでしょうか。
彫刻作品に限らず、表現というものは人間の体を使ってなされます。腕を使って絵筆やペンを動かして絵画や文学を生み出したり、声帯を震わせて歌ったり…。そして、そういう表現は、人類の誕生以来、ずっと続いてきた行為なのです。そうした記憶として取り込まれた身体の感覚が、作品に向かい合ったときに再現されて感じられる、ということではないでしょうか。

布施 英利(芸術学者・批評家)

 

美術の本質には、身体の動きや、身体に残された人類の記憶が深く関わっているということですね。

そうです。我田引水で恐縮ですが、つまりは、すべて表現は人間の筋肉や骨格の動きによってなされるものですから、その動きを研究することによって、より豊かに深く味わえるようになるのではないかと思っているのです。

僕は、美術解剖学の研究をしている中で、そういった身体構造のメカニズムとか発達とかの究明を通じて、その背後にある本質的なものに触れることこそが、美術にいちばん大事なところではないかと考えるようになりました。
ちょっと話がずれますが、僕が今住んでいるのは伊豆の海に近いところです。ここに引っ越してきた理由の一つはダイビングをするためなんです。海に潜ると、貝やナマコやサンゴなど、すごく色鮮やかな生き物がいっぱいいるんですよ。そういうのを見たときに、その形とか、あるいは触った感じとかが内臓にすごく似てると気がついたんです。人間というのは、そういう生き物、すなわち内臓を包み込むように骨がついて目玉がついて脳がついて手足がついてでき上がっているんですね。海の中の生き物は、進化の痕跡といえるんじゃないか。だから、人間の体の中には進化の過程や、生命の記憶、生命の全ての歴史が入っているんです。

30億年に及ぶ進化の歴史の果てにでき上がってきたのが人間の体。だからそれを解剖するということは、ある意味で生命の歴史をひもとくことになるんです。人間の体には世界の真理が集約されているんじゃないかとも思います。
まさに、美術の本質を見極めるということは、人間を探求するということ。そして、世界を探求することなんです。

布施 英利 [ふせ・ひでと]

芸術学者・批評家。1960年、群馬県生まれ。東京藝術大学大学院修了後、東京大学医学部助手などを経て、現在、東京藝術大学准教授。主な著書に、『君はレオナルド・ダ・ヴィンチを知っているか』『君はピカソを知っているか』『京都美術鑑賞入門』『絵筆のいらない絵画教室』『「モナリザ」の微笑み』など。

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