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Story 1 翻訳という仕事

――翻訳という仕事を通して,日本語や,日本語と外国語の違いについて,どんなことをお感じですか。

最初にこんな話をすると,どうかと思われるかもしれませんが,外国語に比べて日本語は面倒くさいですよ(笑)。英語やヨーロッパ言語は,日本語に比べるとはるかにシンプルです。

金原 瑞人(翻訳家)

講演でもよく話すのですが,翻訳でまず悩ましいのが,“I”と“You”をどう訳すかということです。だって,英語だと“I”しかないのに,これを日本語に訳すとなると,「僕」「私」「おれ」「あたい」と,いろいろな言葉があります。“You”にしても同じでしょう。「あなた」「君」「おまえ」「てめえ」。どう訳してもいいんですから。

――日本語には,それだけバリエーションがあるということですね。

ええ。英語では,小説の冒頭に“I”が出てきても,それだけでは,その人物の性別も年齢もわからない。無色透明なんです。だけど,日本語にするときは,“I”をどう訳すかでその人に最初から色がついてしまう。日本語の一人称は,言葉自体が色をもっているんです。
性別や年齢だけでなく,「私」と訳すか「あたい」と訳すかで,人物の立場や状況までが表れてしまう。普段は「僕」と言っていた人間が,公式の場では「私」と名乗ることもあるし,同じ人物でも,年を取るごとに言い方が変わることもありますしね。

金原 瑞人(翻訳家)

――つまり,外国語を日本語にする作業は,骨は折れるけど,おもしろいとも言えるんでしょうか。

そうかもしれませんね。「吾輩は猫である」という日本語を英語に訳したら,“I’m a cat.”としかならない。逆に英語なら,誰が言っても“This is a pen.”なのに,これを日本語に訳そうとすると,さまざまな言い表し方がある。翻訳する人間の解釈や感性が反映されます。
欧米の人は,話をするときに大きなジェスチャーを交えるのに,日本人はあまりしない。もしかしたら,日本語は言葉自体でかなりニュアンスを伝えられるからじゃないか。そんなふうに思うこともあります。

――なるほど。金原さんにとって,「これを訳してみよう」という本との出会いは,どんなものなのでしょう。

皆さんは「ええっ,本当?」と思うようなエピソードを期待されているのかもしれませんが,そんなにドラマチックな出会いはありませんよ(笑)。もともと本が好きなので,読んでおもしろかったものを,「本にしませんか」と出版社に持ち込むこともあるし,出版社から依頼されて初めて出会う本もあります。
これまで教科書に載った作品の中でも,「わたしを作ったもの」(ロバート・ウェストール)や「ゼブラ」は,その当時,まだ日本では出版されていませんでしたが,編集者に「こんな作品があるんだけど」と話したところから,訳しおろすことになりました。「三つのお願い」は,英語教科書(光村図書“COLUMBUS 21”)のリーディング作品の候補を訳してみたら,結果として国語教科書に載ったという記憶があります。

――多くの作品を翻訳されてきた金原さんにとって,これは大変だったというお仕事はありましたか。

大変なのは,古典というか,昔に書かれた作品の翻訳です。キプリングの「ジャングル・ブック」やサマセット・モームの「月と六ペンス」の新訳を引き受けたことがありますが,どちらも100年も前に書かれた作品です。そのときは,現代の作品を訳すときに比べて,自分でも驚くくらい辞書を引く回数が多かった。つまり,調べないとわからない言葉,今では使われなくなった言葉がたくさん出てくるんです。

金原 瑞人(翻訳家)

金原さんが訳した「月と六ぺンス」

金原 瑞人(翻訳家)

昭和26(1951)年に出版された菊池寛訳の「ジャングル・ブック」

モームはかつて「辞書を引かなくてもわかる平易な文章の書き手」と言われていたくらいで,昔の翻訳家は悩まなかったのかもしれませんが,時の流れでしょうか。日本語だけでなく,英語も時代とともに大きく変化しているのだと実感しました。

Photo: Shunsuke Suzuki


金原 瑞人 [かねはら・みずひと]

1954年,岡山県生まれ。翻訳家,児童文学研究家。法政大学社会学部教授。法政大学文学部英文学科卒業後,同大学院修了。訳書は児童書,一般書,ノンフィクションなど400点以上。日本にヤングアダルト(Y.A.)というジャンルを紹介。主な訳書に,ペック著『豚の死なない日』(白水社),シアラー著『青空のむこう』(求龍堂),ヴォネガット著『国のない男』(NHK出版),グリーン著『さよならを待つふたりのために』(岩波書店)など。エッセイに『翻訳のさじかげん』(ポプラ社),日本の古典の翻案に『雨月物語』(岩崎書店),『仮名手本忠臣蔵』(偕成社)など。

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