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「自画像」のひみつ 第6回

「自画像」のひみつ

2015年9月28日 更新

藤原 えりみ 美術ジャーナリスト

「自画像」にはこんなひみつがあった! 自画像をめぐるさまざまエピソードとその見方をご紹介。

藤原えりみ(ふじはら・えりみ)

1956年山梨県生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科修了(専攻/美学)。女子美術大学・國學院大學非常勤講師。著書に『西洋絵画のひみつ』(朝日出版社)。雑誌『和楽』(小学館)、『婦人公論』(中央公論新社)で、美術に関するコラムを連載中。光村図書高等学校『美術』教科書の著作者でもある。

第6回 ゴッホになりきる ―他者としての「自画像」―

中学校や高校の美術の授業で自画像を描いた経験のある人は多いと思う。実際、美術の教科書の編集に携わってみても、「重要な単元」の一つであると実感する。けれども、「だいたい10代の頃の自分を思い返してみなよ。自分の顔なんて大嫌いじゃなかったか? そうじゃなくて、自分とは違う〈何か〉になりたくて仕方ない、いわゆる〈変身~!〉ってヤツに憧れる、そんなお年頃なのだよ」と、さる高名な美術館の館長殿がおっしゃるのを耳にして、大爆笑。

確かにねえ――と思い当たる節がある。自らの裡(うち)に他者と自分を比較するまなざしが生まれ、否応なく自分自身を意識せざるを得なくなる、そのような時期に「見えてくる自分自身」とは、ほとんどの場合、決して「快く受け入れることのできるもの」ではないだろう(顔の造作が嫌い、体型が気に入らない等々)。
だから、自分とは違う〈何か〉に憧れ、できればその〈何か〉になりたいと思う。あるいは、〈ここ〉とは異なるどこか、〈他の場所〉に身を置いてみたいと思う。それは、自己否定あるいは現実否定の衝動から生まれる、変身願望であり逃避願望だ。けれども、こうした衝動が必ずしもネガティヴに作用するとは限らない。むしろ、他者の存在の多様性を認識し、さらには〈ここ〉に代わる未知の場所や領域への関心を切り拓く契機ともなるだろう。自らの皮膚を境として、外部の世界が立ち現れてくる。自己充足していた個の周辺に「社会」が形成されていく、と言い換えても良いだろうか。

ところが、ここで終わらないのが人間の面白さ。自己嫌悪や自己否定をいったん通り過ぎてみると(つまり少々成長してみると)、あらま。実は固定した「私なるもの」がどうも見当たらない。むしろ……「私自身の裡にいくつもの〈私〉がいるみたい」という顛末が待ち構えていたりもする。そう認識してみると、わざわざ〈他の何かになる〉必要もないわけなのだが……。

1980年代半ばに、あえて「他者の姿をまとう」という複雑なイメージ操作による自画像の試みが登場する。
その代表的なアーティストが森村泰昌だ。1985年制作の「肖像・ゴッホ」(※1)から始まる「美術史の娘たち」シリーズは、「西洋美術史になった私」「女優になった私」「日本美術史になった私」へと受け継がれ、今世紀に入ってからは20世紀の歴史に関与した男たちをテーマとする「なにものかへのレクイエム」を展開中(※2)。

※1 「肖像(ゴッホ)」森村泰昌(大阪新美術館建設準備室 )

※2 森村泰昌(「森村泰昌」芸術研究所)

耳切事件後に描かれたゴッホの自画像に基づく作品では、頭部をゴムバンドで強く縛り付けていたため、血流が滞って卒倒しかけるという危険すれすれの制作だったという。いわば、「わだばゴッホになる」という棟方志功の言葉をそのまま地で決行したわけだが、悲壮感と笑いが同居する強烈な印象を与える作品となった。

あるときはマネの「オランピア」、あるときはレンブラント、あるときはフリーダ・カーロ、マリリン・モンローや昭和天皇等々、男女の性別を超えて名画や女優になりきる森村泰昌とは対照的に、「「女性のステレオタイプ・イメージ」から出発したアーティストがシンディ・シャーマンである(※3)。
アメリカのB級映画かTVのメロドラマの一場面を思わせるシーンを自らが演じる「アンタイトルド・フィルム・スチールズ」シリーズで鮮烈なデビューを飾ったシャーマンは、マスメディアによって作り上げられる女性のイメージをあえて身にまとう。そうして作り上げられた女性たちは、いずれもどこか不安げだ。寄る辺ない彼女たちの根無し草のような表情は、作品と向かい合う私たちの心の奥に潜む孤独感や揺らぎを映し出す。他者になりきることで、他者の心を掬い上げる。自らの顔を表に出しながらも、自らの存在そのものを匿名化するシャーマンならではの手法ゆえの、不思議な効果だろうか。

※3 シンディ・シャーマン(ニューヨーク近代美術館)

変装して自動証明書写真装置で撮影した証明写真400点をまとめて提示するというユニークな作品で評価された澤田知子(※4)も、この系譜を受け継ぐアーティストの一人である。同一人物なのに別人に見える証明写真群は、もはや証明としての機能を持ち得ない。写真という装置が生み出す「真実」という幻影を見事にとらえた作品だ。澤田は、「OMIAI♡」シリーズや2000年代前半に流行したガングロメイクの少女たちに扮した「FACE」シリーズ、旅館や料亭の女将に扮した「Costume/OKAMI」シリーズなど、「外見」と「内面」との関係を問う作品を発表し続けている。

※4 澤田知子 (Tomoko Sawada Web)

自己と他者のイメージを交差させる三者三様のアプローチには、20世紀後半以降の社会における人間の自己認識の複雑な様相が関わっている。自己と他者の往還に潜む紆余曲折を思うにつけ、「自己演出としての自画像」(第5回参照)で取り上げたクールベやゴーギャンの、ストレートな自己イメージ演出(捻出?)がほほえましく感じられたりもする。

次回は、東京藝術大学の学生が卒業制作で描く「自画像」についてご紹介します。


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