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「自画像」のひみつ 第7回

「自画像」のひみつ

2015年12月10日 更新

藤原 えりみ 美術ジャーナリスト

「自画像」にはこんなひみつがあった! 自画像をめぐるさまざまエピソードとその見方をご紹介。

藤原えりみ(ふじはら・えりみ)

1956年山梨県生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科修了(専攻/美学)。女子美術大学・國學院大學非常勤講師。著書に『西洋絵画のひみつ』(朝日出版社)。雑誌『和楽』(小学館)、『婦人公論』(中央公論新社)で、美術に関するコラムを連載中。光村図書高等学校『美術』教科書の著作者でもある。

第7回 自画像にみる時代の変遷 
―藝大生の自画像制作(1)―

前回でも触れたように日本の中学校・高等学校の美術の教科書には、「人物を描く」という単元とは別に、「自画像」の単元がある。自画像も人物を描くことのうちの一つだと考えれば、わざわざ独立した扱いにする必要はないのでは? という素朴な疑問が浮かぶ。「自画像」が特別に扱われるのはなぜなのだろう。そして、日本の美術教育において「自画像」が重要視されるようになったのはいつのことなのだろうか。

自画像といえばまずは西洋絵画の作例が思い浮かぶだろうが、日本でも室町時代の画僧・明兆や雪舟の自画像(現存品は模本)、また江戸時代になると円空や木喰の自刻像など、いくつかの作例が伝わっている(※1)。

※1 円空自刻像(関市観光協会)

けれども、今の私たちが思い描く「自画像」のイメージ、つまり自己を直視するまなざしを感じ取ることができるのは、やはり明治以降の油彩画による作例だろう。青木繁や熊谷守一、藤田嗣治、佐伯祐三などなど、日本の近代洋画史を彩る画家たちの自画像が思い浮かぶ。そこでふと脳裏を過ぎるのは、東京藝術大学の卒業制作時に提出される自画像だ(※2)。

※2 東京藝術大学大学美術館収蔵品データベース・サイトで、卒業生の自画像作品画像の一部を検索して見ることができる(すべての自画像作品の画像がアップされているわけではないのだが)。例えば……

熊谷守一「自画像」(東京藝術大学大学美術館)

佐伯祐三「自画像」(東京藝術大学大学美術館)

北蓮蔵「自画像」(東京藝術大学大学美術館)

東京藝術大学の前身、東京美術学校の開校は1889(明治22)年。それから7年後、フランスから帰国したばかりの黒田清輝を迎えて西洋画科が設置された。西洋文明に触れ、滞欧中にレンブラントの自画像を模写したこともある黒田にとって、日本における近代的自我の確立という課題と、西洋美術における自画像制作の伝統が違和感なく結びついたのだろう。黒田は卒業制作の一部として自画像を制作する教育方針を掲げ、第2回生の北蓮蔵と白瀧幾之介の自画像を初めとして、大学による自画像買い上げの伝統が形成された(買い上げの決定は明治36年のことだが、この時にそれ以前のものも含めて購入された)。以後、収集が中断された時期もあるが、当初は西洋画科のみであった自画像課題は、第2次世界大戦後に彫刻科、日本画科、工芸科へと拡大。絵画科(油画・日本画)と彫刻科、工芸科の学部卒業生による自画像の収集は現在も継続されている(※3)。

※3 新関公子「東京藝術大学美術館自画像収集の歴史」(『東京藝術大学創立120周年記念企画 自画像の証言』所収、2007年、東京藝術大学大学院美術研究科油画技法材料研究室)

西洋画科創立後間もなくの自画像はシンプルな構図が多く、自己演出の気配はあまり感じられない。ところが明治40年代に入ると、西洋文化の一翼を担う自負あるいは画家としての矜恃がちらほらと画面に現れ始める。次回は明治40年代から第二次世界大戦以降までの作例を追ってみようと思う。

数々の画家を輩出してきた大学だけあって、明治から平成に至る作例を概観すると、時代背景や芸術観の変転までも見えてくる。4800点以上もの作例のなかから、ほんの少しだけ紹介してみよう。まずは明治34年卒業の青木繁(※4)。

※4 青木繁「自画像」(東京藝術大学大学美術館)

茶褐色の画面の奥で光を湛える眼が印象的だ。荒々しいタッチながら形態把握は確実で、地味な色合いなのに画家の創作にかける熱い情感が伝わってくるようだ。

次回も、ひきつづき藝大生の自画像制作についてご紹介します。


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