みつむら web magazine

「自画像」のひみつ 第10回

「自画像」のひみつ

2016年3月25日 更新

藤原 えりみ 美術ジャーナリスト

「自画像」にはこんなひみつがあった! 自画像をめぐるさまざまエピソードとその見方をご紹介。

藤原えりみ(ふじはら・えりみ)

1956年山梨県生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科修了(専攻/美学)。女子美術大学・國學院大學非常勤講師。著書に『西洋絵画のひみつ』(朝日出版社)。雑誌『和楽』(小学館)、『婦人公論』(中央公論新社)で、美術に関するコラムを連載中。光村図書高等学校『美術』教科書の著作者でもある。

第10回 おびただしい「私」と向き合う「わたし」の描く軌跡

当初は8回の予定でスタートした連載「『自画像』のひみつ」も今回で最終回。第10回となる最終回では、第6回で紹介したアーティスト森村泰昌の約30年にわたる美術史との対話の総括となる展覧会「森村泰昌:自画像の美術史―『私』と『わたし』が出会うとき」(大阪・国立国際美術館、2016年4月5日~6月19日)を取り上げたいと思う。連載最終回アップの翌月開催というタイミングでこの展覧会を取り上げることができることに、何か巡り合わせのようなものを感じてしまうのだが、それも筆者の加齢による感傷だろうか。

画像、森村泰昌

森村泰昌氏(写真左)と、今回の展覧会で発表する新作の一部。

【左から順に】
森村泰昌 「自画像の美術史(レオナルドの顔が語ること)」 2016年 作家蔵
森村泰昌 「自画像の美術史(証言台に立つルブラン)」 2016年 作家蔵
森村泰昌 「自画像の美術史(ゴッホ/青)」 2016年 作家蔵

「森村泰昌:自画像の美術史―『私』と『わたし』が出会うとき」

 

筆者が初めて森村作品に出会ったのは、1987年。江東区佐賀町にあった佐賀町エキジビットスペースで開催された関西の若手アーティストを紹介する「イエス/アート・デラックス」展だった。自らを彫刻に見立て、顔や体を赤に塗りたくって撮影されたセルフポートレート。阿吽(あうん)の仁王像よろしく左右に向き合う胸像(※)や裸体の全身を真っ赤に塗りたくってポーズを取った自写像に「この人、一体何者?」と、強烈に脳裏に刻み込まれたのだった。彼のアーティスト人生に起死回生の転機をもたらした「肖像(ゴッホ)」(1985年)は出品されていなかったように思う。「肖像(ゴッホ)」を含め、この段階では、まだコンピュータ・グラフィックス技術は使われていない(大日本印刷とのコラボレーションでCG技術を応用するのは1989年以降)。メイクアップした自分自身を物理的に組み上げた装置にはめ込む手法で制作された「肖像(ゴッホ)」は、観光地の記念撮影用の装置「顔ハメ看板」を思い起こさせ、ゴッホのすさまじい生きざまとこの手法とのギャップが、曰く言い難い感懐を呼び起こす。

しかもゴッホになりきろうとする森村の姿勢には、どれほど笑いを誘おうとも、「今の自分にできることはこれだけだ!」という敢然たる意気込みと気迫に満ちている。以後の森村の制作は怒濤のごとく。1990年の佐賀町エキジビットスペースの展示に始まる美術史上の名画を解釈し、自らのイメージを合成した「美術史の娘」から、東西の女優になりきった「女優シリーズ」、20世紀の歴史に名を刻んだ男たちをテーマとする「何者かへのレクイエム」へと、絵画+写真+女性+男性とおびただしい変身を続けてきた。

何故これほどまでにメタモルフォーゼを続けねばならないのか……と、ある段階で筆者は痛々しさを覚えてしまった。自らの顔を隠蔽しつつ他者の顔をまとうことで自己存在を確認する。そのような手続きを経ねば、森村泰昌という人物は存在できないのかと。人知れずこっそりつぶやいたものだ「もういいのではないのですか? 森村さんは森村さんですよ」と。

その森村がこれまで30年にわたって制作してきた美術史上の画家作品に新作を加えて、「自画像」そのものを直視する個展を開催するというのだから、これはもう何をおいても体験せねば! という思いに駆られた。とはいえ、この原稿を書いている段階では、まだ展覧会は開催されていない。美術の歴史に登場したおびただしい「私」と、限られた時間を生きざるをえない森村泰昌という「わたし」の対話はどのような展開を示すのだろうか――。

今回の展覧会では、過去作品に含まれていなかった、レオナルド・ダ・ヴィンチやヤン・ファン・エイク、デユーラー、カラヴァッジョ、ルブラン、ウォーホル、デュシャンらに新たにふんした森村と、素顔の森村自身が登場する映像作品「『私』と『わたし』が出会うとき―自画像のシンポシオン―」が上映される。3月初旬の記者発表会ではそのうち「ファン・ゴッホ」だけを見ることができたが、森村のアーティストならではの解釈は斬新だ(弟テオと画家フィンセントを二重に映し出された人格の反映として語る)。

画像、「自画像」駒江哲郎
森村泰昌 「自画像のシンポシオン」
2016年 作家蔵
レオナルド・ダ・ヴィンチやウォーホルなどにふんした森村氏が、「最後の晩餐」のように並んだ作品。左端には自身の姿も。

森村自身は「個人史を回顧するのではなく、美術史と自己の歴史の関係をどのように再構成できるか」が今回の展覧会の課題だったという。「自分自身とは何かという問い」の連続は、森村の個人史を形成すると同時に、「絵画」という視覚空間を構成する重要な基層であったこと。「自分探し」などという安直なレベルを超える、愚直なまでの歴史との対話による検証が出現する。自己という閉鎖空間にとらわれたまま、出口を探して悪戦苦闘しもがいている若者にこそ体験してほしい。悔恨と成熟がない混ざった老練な世界が私たちを待っているはずである。

 

※森村氏の「肖像(赤I)」は、下記のサイトから閲覧することができる。
独立行政法人 国立美術館 所蔵作品総合目録検索システム

展覧会に合わせ、大阪の名村造船所跡地では、「森村泰昌アナザーミュージアム」が開催される。
NAMURA ART MEETING '04-'34 vol.05 臨界の芸術論II―10年の趣意書

本連載は、今回が最終回です。ご愛読、ありがとうございました。

 

■当サイト内の文章・画像等の無断転載及び複製等の行為は固くお断りいたします。


関連記事

記事を探す

カテゴリ別

学校区分

教科別

対象

特集