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2010年春 高野 進 「動いて,考えて,また動く」

バルセロナ五輪の400メートル競技で8位入賞,現在は独自の走法理論を構築し,北京五輪銅メダリストの末續慎吾選手らを育てている高野進さんにお話を伺いました。

第1回 「陸上競技との出会い」

高野さんは,どんなきっかけで陸上競技に興味をもたれたのですか。

高野 進

走ることは,自分にとっては小学生のときからすでに特別なことでした。それが唯一自慢できることだったからです。速く走れば注目される。自分の存在を他者に知ってほしいという意識が強い時期ですからね。

最初は,富士山のすそ野の小学校に通っていましたが,その学校が廃校になって都市部の小学校に転校しました。前の学校では球技などあまりやった経験がなかったので,なかなか仲間となじめない日々が続いていたのです。自分に自信が持てなかったのでしょうね。

ところが,そんなわたしの大きな転機となったのが運動会です。山あいで育っただけに,足腰だけは鍛えられていたのでしょう。足の速さでは負けたくなかった。普段から意地悪を言っていた友達をどんどん抜き去って,ゴール。千人規模のマンモス校でトップに立ったのです。その喜びと,なにより友達から認められたという思いが,それ以降のわたしの人生の大きな原点となったことは間違いありません。

それから,ずっと陸上を続けて,バルセロナオリンピックで日本短距離界の五輪史上60年ぶりのファイナル出場を果たされたのですね。

そんなにすんなり行けたわけではないんです。

小学校ではいつも走ることにかけてはトップだったのですが,中学校で入った陸上部で挫折してしまったのです。地味で単調な練習の繰り返しがとてもつまらなく感じられて,部活に出なくなりました。大会に出ても,自分の得意な走る競技ではなく,跳躍系ばかりで,それも地区大会で落ちてしまう。走る喜びも,走ることを通して得た友達も失ってしまったのです。まさに孤独な「冬の時代」でしたね。

400メートルという種目を選ばれたのどうしてですか。

高校に入って,再び,自分が足が速いことに気づかされました。2年生で出場したインターハイの200メートルで,あれよあれよという間に全国大会の準決勝まで進出してしまったのです。このころから陸上競技というものが,わたしにとって特別なものになったきたような気がします。

その後,400メートルへ転向することになります。正直言ってやりたくなかったですね。もっと上を目指していたわたしは,400メートルは日本人にとって世界の舞台が遠い種目であることを知っていましたし,なにより想像を絶するほどの苦痛を伴う競技なのです。究極の無酸素運動なのですから。走り終わった後は,足の筋肉が酸素不足で悲鳴を上げ,数時間はその苦痛が治まりません。

しかし,この時の決断が,後のわたしの日本記録と五輪のファイナル出場,そして教え子の末續選手へと受け継がれていったのです。

高野 進

バルセロナオリンピック400メートル決勝
(写真:フォート・キシモト)

400メートルに取り組むことになって,独自の練習を始められました。

わたしは,どんな困難があっても,徐々に好奇心のほうが強くなる性分で,嫌だと思った400メートルも,なんとかしてやろうと考え始めました。それまで当たり前だった練習を見直し,自分で走り方を考え始めたのです。

よく「400メートルの魅力は何ですか」という質問を受けますが,400メートル自体には魅力はありません。全力で走って,そこに記録や順位がついて初めて「よかった」と感じるのです。その「よかった」を感じたいために,わたしは走り方について積極的に研究を始めました。

「日本人にあった走り方とは」「人間の正しい走り方とは」,そんなことを追究していきました。そして,今も破られていない日本記録など,数々の成果を出し続けることができたのです。

高野 進[たかの・すすむ]

高野 進

1961年,静岡県富士宮市生まれ。東海大学体育学部教授。

陸上400メートル競技で,82年インドアジア大会優勝。84年ロサンゼルス五輪と88年ソウル五輪ではベスト16,92年バルセロナ五輪で8位に入賞する。日本記録保持者(44秒78)。

大学で教鞭を執るかたわら,陸上競技部短距離コーチとして学生を指導。財団法人日本陸上競技連盟理事・強化委員長として国際競技会等で活躍する選手の育成にも努めている。また,特定非営利活動法人日本アスレティクスアカデミー理事長として,陸上競技の普及活動を進めている。

主な著書に『高野進流 日本人のための二軸走法』(スキージャーナル),『走れ!ニッポン人 一億三千万総アスリート計画』(文藝春秋),『陸上 短距離走 パーフェクトマスター』(新星出版社)などがある。