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2013年春 柴田元幸 「創造と実務が共存する世界に生きる」

アメリカ文学研究者・翻訳家の柴田元幸さんに,翻訳するとはどういうことか,教育者として何を大切にしているかなどについてお聞きしました。

Story1 解釈ではなく感受

翻訳のお仕事をされるようになったいきさつをお聞かせください。

 僕は,大学の英文科に行き,大学院へ進みました。そうすると,その後,選びうる進路は,大学で英語や英文学を教えることに絞られてくるわけで,それで大学の教師になりました。そのうち,英文学の専門家であるということから,翻訳がらみの仕事の依頼が来るようになり,それを器用にこなしているうちにこうなったという,まあ,成り行きみたいなものですね(笑)。

柴田元幸

 中学生の頃から,英語は好きで得意な教科でした。ただ,英文和訳の模範解答におかしな日本語があると,妙に気になってしまうという,性格が悪い生徒ではあったように思います。それは,自分なりの読み方があるとかいうわけではなく,単純に,「日本語でこんな言い方するの,変だよ」ということ。翻訳書を読んでいても,「この日本語,変だな」ということは思っていましたね。
 文学であれば,そのおかしな言い回しによって別の味わいが生じることもあると思いますが,例えば,社会科学の本なんかは,翻訳がまずいと,とにかく論理的に何を言っているのかわからなくなる。僕は頭が悪いから,ちょっと翻訳がまずいと,もうわからなくなってしまう。そういう思いを読者にさせたくないから,とにかく無駄にわかりにくい訳は避けようと気をつけますね。翻訳って,「わからないと思った」という経験がある人のほうが,ちゃんとやる気になると思う。だから,下手な訳文でもわかってしまう頭のいい人は,翻訳には向かないかもしれない。

仕事の依頼があったからといって,そんなにすんなり翻訳ができるようには思えないのですが。

 翻訳って,ある程度は,誰でもできるものだと思いますよ。読者の目で見れば,自分の訳が変かどうかはわかるはずじゃないですか。だから,自分の中の読者からの文句に応じる「マメさ」と,原文の感覚がどういう手触りかがわかる「語学力」があれば,誰でもできるんです。
 でも,これはだんだんわかってきたことなのですが,語学力がある人はわりといるんですよね。むしろ,自分の訳文を練っていくマメさというのに,性格の向き・不向きがある気がします。それから,他にもっとやりたいことがない,つまらない人生を送っているというのも大きな要素かもしれませんね(笑)。これがそろえば,誰でもできる。

ご自身では,「翻訳する」という行為に,なぜ魅力を感じるのだと思われますか。

 中学生のときに,職業適性検査のようなものを学校で受けたんです。それで,やりたいことは芸術的・創造的なことではあるけれど,能力としては,圧倒的に実務的・事務的なことに向いているという結果が出たんです。やりたいことと向いていることが全く合っていなかった。
 ところが,翻訳は,まさにそのやりたいことと能力がマッチした仕事なんです。先ほどからお話ししているように,翻訳って,大部分は事務仕事ですから。そして,それでいて,芸術・創造に関わっている。そういう仕事ができて,僕は本当に幸運です。これが,なぜこの仕事が楽しいのかっていうことへの,間接的な答えです。

柴田元幸

 直接的には……自分ではものすごい小説を書くことなんてできないわけです。でも,それが英語の小説だった場合,自分が訳すことで,英語を読めない人が読めるようになる。そういう営みに参加できるというのは,とてもうれしいことです。それで感謝もされて,お金も入るなら,悪いことは何もないですよね(笑)。要するに小説の翻訳って,天才的でない人間でも,天才的なことに携わることができる仕事なんです。

でも,「柴田さんの訳だから読みたい」という人もいるのではないでしょうか。合っているか間違っているかだけではない部分もあるように思えます。

 まあ,そうですね。ただ,合っているか間違っているかでいえば,翻訳なんて,全部,間違っているんですよ。何もかも全部を伝えるなんて,原理的に無理なんですから。ただ,「どう間違うのがいちばんいいのか」を細かく考えるしつこさがあるといい,とはいえるかもしれませんね。
 例えば,そのセンテンスの中で視覚的な情報が与えられているとすると,理想的には,語順だって全部いっしょのほうがいいわけです。語順が違うって,カメラの動きの順番が変わってしまうようなものですから。でも,英語と日本語の場合,そもそも構造が全く違うので,同じ語順にするなんてありえないわけです。それだけでもう誤訳。そういうふうに考えていくと,翻訳で伝わっていないことというのは,いくらでも挙げることができます。その中で,「ここでは,何が伝わるのがいちばん望ましいのか」ということを見極める。そうやって大体を伝えていけば,小説の場合,総体として「よさ」は伝わるんじゃないかと思います。

お話から,翻訳では,日本語の文章にアウトプットする部分の能力よりむしろ,原文をインプットして感じ取るほうが大事なような気がしてきました。

柴田元幸  そのとおりですね。「感じ取る」っていうのがとても大事だと思います。「解釈」などと,頭の作業のように言う人もいますが,それとは違う。「感じ取る」という,もっと体感的なことを僕はイメージしています。
 言ってしまえば,翻訳って,音叉(おんさ)みたいなもの。全く同じ高さの音叉が二つあれば,一つをたたくともう一つも共振して鳴り始めるわけですよね。それが理想ではあるけれど,言語が違う時点で,全く同じ音叉ではないわけですから,それはありえない。絶対にずれが出てきて,「うなり」みたいなものが生じてしまうわけです。そのときに,どういう「うなり」がいちばんきれいなのか,あるいは,いちばん「うならない」ようにするにはどうするか,という問題なんです。

 気の利いたことを言いたがる人が,「翻訳は,結局,日本語力ですよね」というようなことを言うんですが,それを聞くと,「いや,全然違います。英語力です」って言いたくなります。でも,逆に「英語力が大事ですよね」と言われると,「いや,日本語力も大事です」と言いたくなる(笑)。両方なんです。翻訳者は,作者と読者の間に立って,どちらの都合に対してもいい顔をしなければいけない。

読者の都合という意味では,説明しなければ理解が難しそうなことは,原文にないことでも,補って表現するという場合もあるのでしょうか。

 それはかなり微妙で,場合によりますね。例えば,歴史的事実なんかを扱っている小説の場合。その歴史的事実を知らないと内容がよくわからなくなりそうで,かつ,英語圏の読者であればその歴史的事実をたいてい知っている――そういった情報があるとすれば,注を付ける。それがもっとも極端な形ですよね。僕がこれまで訳した作品でいえば,リチャード・パワーズの『舞踏会へ向かう三人の農夫』,トマス・ピンチョンの『メイスン&ディクスン』がそうです。どちらもアメリカ史の話なので,必要があってそういった注を付けました。

柴田元幸

 もう少し微妙な例としては,例えば,英語で He is only―― とあった場合。これは,is only まで読んだ時点で,only のもつ「彼という人間は/彼がしようとしていることは大したこと・ものではない」というニュアンスによって,その後センテンスがどういう方向に進んでいくのか,読者はある程度見当がつけられるわけです。でも,素直に日本語に訳したら,「――にすぎない」となって,文末まで読まないとそれがわからない。こういうところで,翻訳が原文に比べてわかりにくくなってしまうんです。だから,その場合,「しょせん彼は――」と訳したりする。only と「しょせん」という言葉は対応しないけれど,ここでは補って,センテンスがどちらへ向かうかを初めに方向づけるんです。そういう意味では,「原文にない情報を盛り込むこともある」とはいえるかもしれませんね。いろんなやり方があるんです。

実際に翻訳をされるときは,具体的にどんな過程を経てらっしゃるのでしょうか。

 まずは原文を読みます,当たり前ですけれど。読んでみて,「好きだから訳す」っていうことになるのですが,初めに出版社のほうから話があるか,僕のほうから働きかけるかは場合によりますね。
 それで,実際の作業としては,まず原文テキストをコピーします。机の上には,そのコピーと,電子辞書,紙,ボールペンまたは万年筆がある状態です。紙は,以前はちらしの裏紙を使うことが多かったんです。でも,最近はあまりにも部屋が散らかっていて,原稿がまぎれてわからなくなってしまうので,ノートを使うようにしています(笑)。パソコンは使わず,手書きで訳していきます。

柴田元幸

 調子が乗っているときは,長いセンテンスは文末まで見ずに訳していきますね。5~6行もあるような長いセンテンスを後ろから訳していくと,だいたいろくなことがないので,少なくともブロックごとには,英語と同じ順番にしていきます。後ろのものを前に持ってこないとうまくいかないとわかれば,その時点で書き直せばいいんです。ともかく,長いセンテンスは,終わりまで見る必要はない。気持ちがすでに作品に入り込んでいて,先のトーンもある程度わかっているときは,そんな感じです。英語の1センテンスに日本語の1センテンスが対応するというのではなく,1行1行の「流れ」を再現していくイメージです。ひと通りできたら,その手書きの訳を,妻にパソコンで打ち込んでもらいます。
 そうして次は,原文を全く見ずに,打ち込んでもらったプリントアウトの日本語をとにかく整えていきます。その時点で,原文を読んでから12~24時間後ぐらいなので,原文がまだほぼ頭に入っている。だから,プリントアウトの日本語だけを見て推敲します。赤で修正を入れていくわけですね。
 最後までやったら,またそれを打ち直したプリントアウトを作ってもらう。そこでまた日本語を練る。ここではしっかり,原文と較(くら)べながら推敲します。その後,直して出てきたものをもう一度練って終わりというのが,いちばん早い場合ですね。「まだちょっとしっくりこないな」と思ったら,そこでまた原文をもう一度見るなり,日本語だけをもう一度練るなりします。


柴田元幸[しばた・もとゆき]

1954年,東京都生まれ。東京大学教授,翻訳家。主な著書に『アメリカン・ナルシス』『翻訳教室』『ケンブリッジ・サーカス』など。訳書にポール・オースター『ブルックリン・フォリーズ』『幽霊たち』,スティーブン・ミルハウザー『イン・ザ・ペニー・アーケード』,ジャック・ロンドン『火を熾す』,バーナード・マラマッド『喋る馬』など多数。

Photo: Shunsuke Suzuki