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2013年春 柴田元幸 「創造と実務が共存する世界に生きる」

アメリカ文学研究者・翻訳家の柴田元幸さんに,翻訳するとはどういうことか,教育者として何を大切にしているかなどについてお聞きしました。

Story2 対話しながら導く

大学ではどのような授業を受け持たれているのでしょうか。

 いちばん多いのは,英語の小説を読んで,みんなで自由に論じ合うという,講読の授業ですね。それから,翻訳演習的な授業も,毎年1回はするようにしています。具体的には,僕が出した課題を学生全員に訳してきてもらい,僕とティーチング・アシスタントとで手分けして,それに赤を入れます。授業では,オーバーヘッドカメラ(実物投影機)を使って,学生のいろいろな訳文を映しながら,よりよくするにはどうしたらよいか,みんなの意見を聞きながら赤を入れていきます。

翻訳は,個人の言語感覚や言語経験にとても影響を受けるもののような気がします。そういうものを教えるのは難しそうです。
柴田元幸

 翻訳が個人の言語経験によるというのは,そのとおりです。でも,一人一人の言語経験が反映してしまうから教えられないっていうことにもならないと思うんです。それを言ってしまうと,文学を教えるなんて無理っていうことになってしまいますからね。

 人の翻訳に赤を入れるときって,まさにその「一人一人の言語経験があるうえで教える」ことを無意識にしているような気がするんです。10本の翻訳に赤を入れるとして,10本とも全く同じに赤を入れるということはありえません。「この人のこの文体だったら,こういうふうに直すだろう」っていうことは,おのずと決まってくる。つまり,「トーン」を見るということですね。そのトーンがない翻訳だと,もう直しようがないんですけれどね。

 それから,一人一人の感受性みたいなものがどうしても入り込んでしまうとしても,「このへんからこのへんまでは正解だよね」というのは,ある程度,決まってくるものです。「あなたはそう感じ取ったけれど,語学的にそういう感じ取り方はありえない」ということは言えるわけでしょう。そう考えると,対話は十分成り立ちます。

 小説を読むにしても,翻訳を読むにしても,まず初めに教師としてしっかり提供すべきは,英語圏の読者だったらだいたいどう感じるかということや,語学的に正しいか間違っているかということだと思っています。

学生の感じ方や考え方を認めながら導くということを大切にされているように思えます。

 学生のしていることを否定するのが仕事ではないですからね。その教室にいる人間は,みんなが同じ原文を読んでいるので,その原文が言わんとしていることについてある程度理解しているうえで,ものを言うわけです。だから,論じ合うのはそんなに難しいことではない。
 これが,例えば,共同で翻訳をするというような場合だと,その「声」を誰かが統一する必要が出てくるわけです。そこはもう民主主義ではやっていけない。独裁で進めるしかないですね。実は,独裁のほうが時間はかからないし楽なんですけどね(笑)。

教育者という立場として,苦慮されていることはありますか。

 あんまりないですね。もちろん,ともかく僕に教える能力も知識もないっていう問題はありますけど。翻訳は教えられます。これだけ場数を踏んで,いろいろなことを経験してきているから,経験則でひとまず授業はもちます。でも,小説の読み方といった点では,東大で教えていると,「自分より明らかに読めるな」と思う学生が,クラスに何人かは必ずいるんです。「もうこの人たちに教えることなんかないよ」と思います。
 そういう人たちには,さっき言ったような,「読みとしてありえない」といったことや語学的な情報は提供できるけれど,それ以上のことは提供できない。それが苦慮していることといえば,そうかもしれませんね。

柴田元幸

 特に,ここ20~30年ぐらいは,文学研究のあり方が大きく変わってきているので,僕が学生の頃に仕入れた知識っていうのはもう古いんですね。例えば,性・階級・人種の差異っていうことを念頭に置かない小説・文学の読み方はもうありえない世界なわけです。ともすると,小説としてのよさよりも,そういった差異のほうが問題にされがちな世界。そういう世界には,全然なじめないんですよね。

時代の変化にも大きな影響を受けるわけですね。

 そうですね。今の学生は,コンピュータや新しいテクノロジーに関する知識があるけれど,例えば英文法の知識は,明らかに貧しくなっています。1日24時間の中で,何かに割り振る時間が多ければ,その他にかける時間が少なくなることはしょうがない。ただ,翻訳をするうえでは,文法的な知識,いわゆる受験英語っていうのはすごく大事。受験英語が報われるのって,翻訳を仕事にするときぐらいなんじゃないかっていうほどです(笑)。
 いっぽうで,英語を暗号のように解読するのではなく,生身の人間がそれぞれのニュアンスを込めて使っているものだという直感は,昔の学生より働くような気がしますね。

情報技術が進んで,調べるということに時間をかけなくても済むようになってきたことも関係しそうですね。

 それは大きいですね。調べるということでいうと,今は,知の民主主義ともいうべきウィキペディアみたいな便利なものがあるから,平凡社の百科事典を引くより,まずはそれで調べてしまうところがありますよね。だから,あんまり「この辞書がいいんだよ」みたいな話をしてもしょうがない部分が,ずいぶん増えてきました。

柴田元幸

 ただ,一般の人にとっては,「この単語をどう使うのか」っていうようなことは,インターネットの情報の海の中では,なかなか判断できないんじゃないでしょうか。そういうときに,用例が優れた辞書というのはすごく役に立ちます。例えば,『ロングマン英和辞典』(桐原書店)は,例文でも必ず典型的な使い方が載せてあるので,自分が書くうえでは,これに沿って書くとすごく自然な英語になるんです。自分が編者の一人なのにこんなこと言うのも変ですけど,すごく便利(笑)。日本の辞書って,よく使う用例もあまり使わない用例も,なんでも全部並べがちなんですよね。いい辞書は,切り捨てがきちんとしてある。そういうことが大事なんです。「何が載っているか」ということが問題にされることが多いけれど,学習用の辞書に関しては,「何が捨ててあるか」のほうがむしろ大事なんですよね。


柴田元幸[しばた・もとゆき]

1954年,東京都生まれ。東京大学教授,翻訳家。主な著書に『アメリカン・ナルシス』『翻訳教室』『ケンブリッジ・サーカス』など。訳書にポール・オースター『ブルックリン・フォリーズ』『幽霊たち』,スティーブン・ミルハウザー『イン・ザ・ペニー・アーケード』,ジャック・ロンドン『火を熾す』,バーナード・マラマッド『喋る馬』など多数。

Photo: Shunsuke Suzuki