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Story 2 師との出会い

米倉 斉加年(俳優・演出家・絵本作家)

2020年3月18日 更新

米倉 斉加年 俳優・演出家・絵本作家

このコーナーでは、教科書教材の作者や筆者をゲストに迎え、お話を伺います。教材にまつわるお話や日頃から感じておられることなどを、先生方や子どもたちへのメッセージとして、語っていただきます。
※このインタビューは、2011年11月に収録されたものです。

米倉さんは、舞台の演出もされていますが、どんな演出をされているのでしょうか。

演出家にもいろいろなタイプの人がいますが、僕はお祭りタイプ。私生活では、大勢で集まるのは苦手なんです。しかし、何かを作るときには、みんなでするのが好きなんです。一人では作れない。
僕は博多で育っているから、「博多どんたく」や「博多祇園山笠」をずっと見てきました。博多どんたくの日は、1日だけ武士を批判してもいい無礼講の日なんです。そして、「博多にわか」(※1)は民衆の文化であり、「エログロナンセンス」といった雰囲気で、それがダイナミックさを生んでいる。郷土芸能が僕の原点です。
祭りは、演劇といっしょで「見手」がなかったら成立しません。見手も担ぎ手も一体になって成立するものなんです。そういう祭りを子どものころから見て育っているから、僕はみんなでワッとやって作るのはうまいんです。

僕の師である宇野重吉先生(※2)は学者タイプでした。宇野先生は、中学の先輩である中野重治さんをいちばん尊敬していて、文学的で、ずっと一人で深く考えるというやり方をされていた。僕なんかは、みんなに任せてしまって、それをまとめるだけなんです。

※1 博多にわか 博多地方に伝わる郷土芸能。即興の寸劇。「博多どんたく」で行われる。
※2 宇野重吉(1914−1988)俳優、演出家。1950年、滝沢修らと「劇団民藝」を創立。代表的な舞台に「にんじん」「ゴドーを待ちながら」がある。
 

「まとめる」ということが難しいのではありませんか。

僕は「劇団民藝」を2000年に退団したのですが、そこで3か月ぐらい稽古するような作品を、自分では10~20日で作るんですよ。例えば、いろいろな資料について、スタッフが「どうするんですか」と尋ねにくるでしょう。そしたら、「自分で考えろ。いちいち教えてられるか」って言ってやるんです。すると、彼らはちゃんと自分で考えて準備してくる。もちろん、それぞれにできることを頼んでいるので、当然なんですが。
実は、僕は音楽のことがわからないくせに、舞台では音楽をやたら使うんです。音楽の担当者に「どういう音楽ですか」と言われてもわからない。だから、彼らは、僕のところへたくさんの音楽を持ってきて、片端からそれを聴かせてくれる。それで、僕がイメージに合った音楽に対して「それだ」と言うと、あとは彼らがどういう系統のものなのか考えて用意してくれるんです。
だれかに従属しながら、何かを作り上げていくのは違うだろうと思います。違う人間が集まってそれぞれの世界を作る。それががっしりかみ合ったときに、まったく新しい世界が立ち上がってくる。そういうものだと思っています。

「音楽のことがわからない」というのが意外でした。

僕の場合、落書きから始まって、絵を描くことはいつもそばにありました。音楽は軍歌しかなかったから、逆に欲するのかもしれない。自分ではわからないけれど、わかる人たちに助けられて音楽を使っています。
僕は「見える演出」というのはしないんです。役者がどう演じればいいか想像できるように、その人の中にあるものを僕が刺激して、それぞれが力を発揮していく。だから、僕の形は見えないんです。

絵を描くことが本当に体にしみついているのですね。

絵を描くことからスタートしているから、演じるときは絵を描くように演じています。演出するときには、何千枚もの絵を描くように演出する。それで、絵本をかくときは演出するようにかいています。
僕は、絵を描くときの掟を自分で作っているんですよ。まず、「手に従わず、目に従う」ということ。僕の手は教育を受けていないから、手は下手なんです。でも、子どものころから絵が好きでたくさん見てきているから、目はいいものがわかる。目のほうが手より優れている。だから、僕の目が「この絵はだめだ」と言ったら、それは絶対だめなものなんです。自分の目をパスしないかぎり、描いたものを発表しないことにしています。

米倉 斉加年(俳優・演出家・絵本作家)

それから、「お金をもらわない絵は描かない」ということ。ただでは描きません。お金のために描くわけではなく、値段は問題ではないから、10円でももらうんです。趣味で描いて渡すと言い訳できるのですが、お金をもらったら言い訳はできません。だから、そう決めています。

「目に従う」とは、描いたものがいいのか悪いのか、見たらわかるということですね。

思うとおりに描くには技術がいります。技術が追いつかなくて思ったように描けないと、目が発見します。僕は写生をしないんです。見ないで描く。たぶん、写生をしていても、絵筆を動かす間、対象を見ない瞬間はあるでしょう。僕の場合、その「見ていない瞬間」が長いんだと思っています。ふだん見ているものを頭がちゃんと覚えていて、それを描いているんです。人の名前はすぐに忘れてしまいますが、視覚的な記憶は、ほかの人よりもかなり鮮明に残っているほうかもしれません。

「子どものころから絵をたくさん見てきた」とおっしゃっていましたが、特に印象深い絵はありますか。

最初に見た絵は、描きかけの絵です。赤土の崖があって、松があって、半分ほどは色がついていなくて。おやじが子どものころに描いた絵なんです。ただのスケッチだけど、けっこううまいんですよ。それが、生の絵を見た最初の記憶です。その次に思い出すのが伊藤幾久造さん(※1)や樺島勝一さん(※2)の絵です。講談社の戦争の絵本でした。
それで、小学校3年生ぐらいのときに、図画の里永先生という方が石膏デッサンを教えてくださったんです。太平洋戦争中のことですが、里永先生は小児麻痺で出征なさってはいなかったんですね。これまでに石膏デッサンを教わったのは、そのとききりです。先生は、「絵が好きならば、僕の研究室にいらっしゃい」とおっしゃった。研究室といっても階段下の三角形の掃除道具入れなんですよ(笑)。掃除道具をすべて出して、中に本棚を作って、画集を入れてらっしゃる。そこで、いろいろな画集を見せてくださった。印象派の絵だといって見せてくださった黒田清輝さん(※3)の画集。それが忘れられません。
今にして思えば、僕のさまざまな知識は、すべて小学校で教わったことなんですよ。一生を決めるきっかけは、案外、先生のそういう計らいから得られるものなのかもしれませんね。

※1 伊藤幾久造(1901−1985)挿絵画家。戦争ものの挿絵などで人気を得る。
※2 樺島勝一(1888−1965)挿絵画家。写実的なペン画で冒険小説の挿絵を描き、人気を得た。
※3 黒田清輝(1866−1924)洋画家。外光派とよばれる画風は洋画界の主流となった。
 

先生との出会いは大きいということですね。

もう一人、梅林新市先生という方がいらっしゃいます。小学校1年生のときの担任の先生です。この先生が、僕が絵本をかく、もう一つの原点です。
梅林先生は、よく郷土の民話を話してくださったんです。筑紫に伝わる河童の話も覚えているけれども、いちばん忘れられないのは「耳なし芳一」の話。先生がどうしてこんな怖い話をなさるのか、あのときの僕にはわからなかった。でも、大人になって思いました。日本中が戦時色一色に塗りつぶされ、国のために命を落とすことは美しく清いと美化されていた時代に、先生は「死は恐ろしい。生きよ、生きよ、生き続けよ!」と叫んでおられたのではないかと。恐怖心というのは人間の本能です。逃げたり身を守ったりする行為を生み出す恐怖心は、生きていくためには絶対に必要なものです。田舎の一教師が、あの時代に子どもの方を向いて、「死は恐ろしいんだ」と言い続けていたのではないかと気づいたとき、自分も恐ろしい話を書こうと思ったんです。『多毛留』(偕成社)、『人魚物語』(角川書店)、『おとなになれなかった弟たちに・・・』(偕成社)の「戦争三部作」は、そういう思いが根本にあって生まれました。
でもね、60歳を過ぎたころ、違うと思ったんです。

何があったのですか。

実は、梅林先生は、僕が小学校3年生のころ、突然、学校をお辞めになったんです。お辞めになるときには、手短に別れの言葉を残されただけで、その理由まではお話しにならなかった。でも、僕らの間では、校長先生を殴って辞めたにちがいないということになっていた。当時、毎朝のようにあった朝礼で、校長先生の異常に長い話が終わるまでに、栄養失調だった僕らはバタバタと貧血で倒れていた。梅林先生は、子どもたちがかわいそうだと言って、校長先生を殴って辞めたんだ——同級生たち100人に尋ねたら、100人がそう答えるぐらいの話でした。
それで、あるとき、新聞に、先生が辞められたときのそのエピソードを書いた。「職員室での出来事について教えてくれた先生はいないし、見た子もいない。事実はそうではないかもしれない。しかし、みんながそう思っている。つまり、梅林先生がわれわれの側にいた先生だったということは真理なのである。」と。事実なんかどうでもいい。子どもたち全員が、自分たちを守ってくれた教師であると思っていることに間違いはないという思いでした。そうしたら、梅林先生の次男であるという方から、手紙が届いたんです。

思いもよらない展開ですね。お手紙には何が書かれていたのですか。

手紙には、「米倉さんの話は80%当たっている」というようなことが書かれていました。それから、「あの日の朝のことを忘れません。父は、校長を殴ったから学校を辞めると言いました。米倉さんのおっしゃるとおりです。ただ、米倉さんは、『教壇を去った』とお書きになりましたが、父は隣の学校に移ったのです。しかしながら、半年後、敗戦になったときに、戦争中教師であったことの責任をとると言って教壇を去りました。米倉さんのおっしゃることは、ほぼ当たっております。」と続いていた。そして、長男が陸軍士官学校に入ったとき、梅林先生はたいへん喜ばれていたということも。

米倉 斉加年(俳優・演出家・絵本作家)

先生は普通の庶民だった。ただ、子どもをたいへん愛しておられた。その証拠に、戦争の話などなさらなかった。これが事実です。僕はそれがわかったとき、こう思ったんです。梅林先生が、もし「耳なし芳一」のような話を教育的な理由からなさったのだとすれば、僕らはもう忘れてしまっているはずだ。先生自身がそういう民話が好きで話してくださったからこそ、僕らにはそのおもしろさが残っていて、忘れられないんじゃないかと。「好きで話してくださった」という楽な気持ちは、何をするにしても、僕のもののとらえ方の出発点になっているような気がしますね。

梅林先生から始まって、絵を教えてくださった里永先生、芝居を始めれば宇野重吉先生に出会ってきた。やはり、先生との出会いは、教わる者、弟子にとっては、非常に大切なものです。僕は、師の後を継ぐという意識はなくて、自分の羅針盤を決めるために、その人を北極星のように遠くに見るという感覚でいます。その人のようにはなりようもないしね、天才じゃないから(笑)。

米倉 斉加年 [よねくら・まさかね]

福岡県生まれ。俳優・演出家・絵本作家。1957年、劇団民藝水品演劇研究所に入り、舞台・映画・テレビなど多方面で活躍。 2000年に劇団民藝を退団。2007年、劇団「海流座」を旗揚げし、全国各地で公演を行っている。また、絵本作家としても活躍。『おとなになれなかった弟たちに…』(偕成社)は、1987年より20年以上もの間、光村の中学校「国語」教科書に掲載されている。2014年逝去。

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