米倉 斉加年(俳優・演出家・絵本作家)
2020年3月18日 更新
米倉 斉加年 俳優・演出家・絵本作家
このコーナーでは、教科書教材の作者や筆者をゲストに迎え、お話を伺います。教材にまつわるお話や日頃から感じておられることなどを、先生方や子どもたちへのメッセージとして、語っていただきます。
※このインタビューは、2011年11月に収録されたものです。
「大人になれなかった弟たちに……」は、中学校「国語」教科書1年に昭和62年以来ずっと掲載されていますが、この作品はもともと絵本でした。そもそも、米倉さんはなぜ、絵本をかかれるようになったのですか。
芥川龍之介の童話を読んだことがありますか。実は芥川のように、自分の子どもや孫や周りにいる幼き者たちのために書かれていた童話は少なくないんです。僕が尊敬し、愛し、中学生のころにたくさん読んだ人たちもそんな童話を書いていた。昔の童話は、気持ち悪いものがたくさん出てきたり、ストーリーが残酷だったりするものが多かった気がします。ところが、最近の絵本は、だんだん気持ち悪さや残酷さが薄れていっているように思えます。温室の外に出したらすぐ枯れてしまう草花のように、子どもたちを育てているのでは、と感じることがあります。そんな中、自分の思う絵本をかきたいと思ったのが最初だったのかもしれません。
初めての絵本『多毛留』(偕成社)の文章は、福岡から東京へ向かう飛行機の中ですべて書ききってしまったんです。もともとは大叙事詩を書こうと思っていて、1年分の1回目だけを書くつもりでした。だけど、書き始めたら、すぐに書き終わってしまったんです。
「大人になれなかった弟たちに……」を形にしようとしたのには、どんな動機や衝動があったのでしょうか。
僕は、小学校のときから文章を書くのが苦手でした。当時は「綴り方」という教科があって作文を書くんだけど、いつも2〜3行ほどしか書けなかった。いちばん長いものを書いた記憶があるのは、新制中学の校内弁論大会のときですね。タイトルは「弟の死」でした。それが、今思えば「大人になれなかった弟たちに……」の原型かもしれないな。
弁論大会のときは校内で1位になったのですが、僕にとっては複雑な思い出なんです。そのときの原稿は、実は、先生にほとんど書き直されたものだったからです。僕は、弟が死んだことを書きたかった。その「種」のところは確かに残っていたけれど、構成やエピソードは先生の手によるものだったということを覚えています。細部は忘れてしまいましたが、「寝転がって、『ヒロユキ』と、弟の名前を青空に書いた」というエピソードがありました。実際、僕はそんなことをしたことはなかったんだけれどね(笑)。
そのような体験があったとは知りませんでした。
僕の中にある戦争の記憶とは弟のことなんです。その「種」を、先生の手で再構成していただいて弁論大会に出た。弁論大会とともに思い出すのは、自分の博多弁のなまりがとても強いんだと気づいたこと。「先生」が「しぇんしぇい」になる。これは、俳優になるにはたいへんな欠陥です(笑)。
以前、NHKの番組で、母校の中学校に行って授業をしたことがあるんです。そのとき、生徒たちに、「『先生』を『しぇんしぇい』と言うか?」と尋ねたら、「僕らは言いません。先生の中で一人、『しぇんしぇい』と言う先生がおります」と返ってきた。なんで博多弁がわからないんだと、くたびれちゃった。そんなふうに、言葉っていうのは変わっていくものなんですね。
それはさておき、自分の言葉で、自分の手で、弟の死をきちんと書こうと思ってね。それで書き始めました。
あるとき、よく行く宿屋に滞在して、絵を描いていたんです。売れる絵を描かないと食べていけないから描いていた。だけど、そのときふいに、「やっぱりいかん」という思いがわいてきたんです。「昔の、小学校のころの絵を描かないと」と。「自分の『戦争』を記しておこう」という気持ちになったんです。だれかに何かを教えようという気持ちはありませんでした。「僕の弟の名前は、ヒロユキといいます。」という、あの書きだしが自然に出てきたんです。そのとき、僕は「4年生」の自分になっていました。どこかに転校していったときに、新しい友達に「僕には弟がおって……」と話すような感じで。
そのときは、だれかに何かを伝えるという目的はなかったんですね。
「だれかに伝えよう」というのはありませんでした。僕が書きたいから書いたんです。というか、何か言っておかねばならないことがあるような気がしていました。押しつけるわけにはいきませんが……。手に取る子どもがいれば伝わっていく、そういうものじゃないでしょうか。「伝わっていく」というのは、後の人が伝えるかどうかの問題であって、作った僕の問題じゃないんです。
僕らは、あったことを残すことはしなきゃいかん。伝わらなくとも、だれも手に取らなくとも、置いておかなきゃいかん。そういう思いでこの作品を作りました。僕の中では、「ミルクを盗み飲みした」という、いちばん恥ずかしくて言えなかったことを書かなければいけなかった。
でも、書いて30年も過ぎてくると、いつの間にか細部を忘れているんです。書いたときには、子どもの目のまま、鮮明なまま書いていました。でも、今、これを読むと、「そうだったのか。自分が言っているんだから本当だろう」という感覚なんです。強烈な部分は忘れてはいないけれども、細部は消えかかっている。記憶の角が取れて、丸くなってくるのでしょうか。それをボケるというのでしょうか。
教科書掲載の依頼があったときは、戸惑われたと聞いています。
心のどこかにあったのは、僕は脱落者だということ。よくいう、「負け組」なんです。「負け組」「勝ち組」という言葉が存在する世の中、僕はとっても嫌いです。だって、その考えでいくかぎり、みんな勝ち組ということはありえないからです。僕が役者を始めたころは、定収入がないと都営住宅に入れないという時代でした。それより収入が低い人は、人間の暮らしができない。そんな中で生きている人間には、「世の中全体の考えが正しい」というのには不信感があるんです。教科書や学校は、その象徴のように思えた。
それに、いちばん多感な10歳のときに、すべてが一夜でひっくり返って、民主主義の世の中になるという経験もしている。だから、「教科書」とか「学校」のことを信じろと言われても、どこかで信じられない部分がある。また、ひっくり返るんじゃないかと思って。
僕が自分の弟のいちばん大事なことを書いたものですから、そういう場所に載せられるのは困ると思いました。それで、教科書掲載の話がきたときには戸惑ったんです。
「1週間、考えさせてください」と言いました。でも、僕はね、「1週間」とか「3日」とか言うけれど、言った瞬間には心を決めているんです(笑)。だれも読まないかもしれないと思って書いたんですが、多くの子どもたちに読まれるのなら, こんなにうれしいことはない。そう思って、僕は了承しました。
初めて掲載してから、今年で25年目です。
支持してくださっている先生方、「読みたくない」と言わずに黙って読んでくれた子どもたち、そのおかげでこれが生き続けているんです。
世に出しておいてよかったなと、そう思います。もう僕から完全に離れて、僕のものじゃない。ぽっと出した種が、なんだか僕も知らない花をたくさん咲かせ、そのさまを見ることができる。受け取った側が、育ててくれたという思いです。そのことにたいへん感謝しています。
学習を終えた生徒たちから、手紙が届くことが多いそうですね。特に印象に残っているものはありますか。
海外の日本人学校や沖縄の離島からも来るんですよ。僕はパソコンが使えないから、万年筆で返事を書いています。
「子どもの書くものを見ると、教師がわかる」と思います。戦争のことを、自分の言葉で書いている手紙もあれば、そうではないものもある。おじいちゃん、おばあちゃん、みんなから話を聞いたことがある子は、それぞれの「戦争」を自分の中にもっている。先生から教わった「戦争」しかもたない子もいる。
偏差値の高い低いではなく、本当に自分の言葉で自分のことを表現することができるならば、そのほうが人間的な教育を受けているといえるのではないでしょうか。だから、子どもを偏差値だけで測ることはできないだろうと、僕は思っています。
もらってたいへんおもしろかったのは感想画です。文章はみんなそう変わらないことが書かれていることが多い。でも、絵になると違うんですよ。絵というのは、感じたまま、何も掛け合わせないものが出せる。言葉で表せないものが出るんでしょうね。
米倉 斉加年 [よねくら・まさかね]
福岡県生まれ。俳優・演出家・絵本作家。1957年、劇団民藝水品演劇研究所に入り、舞台・映画・テレビなど多方面で活躍。 2000年に劇団民藝を退団。2007年、劇団「海流座」を旗揚げし、全国各地で公演を行っている。また、絵本作家としても活躍。『おとなになれなかった弟たちに…』(偕成社)は、1987年より20年以上もの間、光村の中学校「国語」教科書に掲載されている。2014年逝去。
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