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第36回 「故郷」への切り口 ――「故郷」(3年)

そがべ先生の国語教室

2023年2月27日 更新

宗我部 義則 お茶の水女子大学附属中学校副校長

30年の教師生活で培った豊富な実践例をもとに、明日の国語教室に役立つ授業アイデアをご紹介します。

「中学校国語教育相談室 No.75」の特集

「中学校国語教育相談室 No.75」(2014年9月発行)には「『故郷』再研究」という特集があります。その中の「『故郷』さまざまなアプローチ」というコーナーで、私は、授業で「故郷」を読む際のいろいろな切り口を紹介しました。これらは主に授業での取り上げ方やポイントを示したものですが、特集のタイトルどおり、「故郷」の教材研究で見つけた「授業での取り上げどころ」の例でもあります。このときに取り上げたのは、次の五つの切り口でした。

①二つの「金色の月」の場面を比較する。
②「故郷」の色彩表現に着目して読む。
③「旦那様! ……。」の朗読のしかたを工夫してみる。
④「人物関係図」を作ってみる。
⑤「語り手」を変えて、作品を書き換えてみる。

「中学校国語教育相談室 No.75」は、光村図書のウェブサイト上でPDF形式で全て読むことができますから、若い先生方は、ぜひこの特集を読んでみてください。
中学校国語教育相談室 No.75

今回は、①~⑤に例示したものとは別の「切り口」を一つ、ご紹介してみたいと思います。

「ルントウとの再会」の場面

「故郷」を読むと、多くの生徒たちが「最も印象に残った場面」として、「ルントウとの再会」の場面を取り上げます。ある意味で、「故郷」という作品の核心ですね。
この場面では、前述の特集の③のようなちょっと変わったアプローチも可能ですが、

  • ルントウはなぜ「旦那様!」と言ったのか。
  • 私が感じた「悲しむべき厚い壁」とは何か。

など、多くの生徒たちの心の中に浮かぶ「問い」をそのまま取り上げるのもよいでしょう。ただし、生徒たちは「厚い壁とは、二人の間にできてしまった身分の差だ」と安易に考えようとしがちですから、揺さぶりをかけたいところです。

  • 「厚い壁」を感じたのは誰?……私
  • 「ああルンちゃん」と語りかけた私は、身分の差を気にしている?……NO
  • 「身分の差」を感じているのは誰?……ルントウ
  • では、私が感じた「厚い壁」とは?

例えばこんなふうに、一人称の「語り手」の視座に気づかせながら、揺さぶりをかけて読みを深めていくことが大切でしょう。

「私は口がきけなかった。」という訳

さて、紹介したい「別の切り口」というのは「厚い壁」のことではありません。この場面で「旦那様!」と言うルントウの言葉に、語り手である「私(迅)」が次のように語ります。

私は身震いしたらしかった。悲しむべき厚い壁が、二人の間を隔ててしまったのを感じた。私は口がきけなかった。

(令和3年度版教科書p.106、18~19行目)

この最後の、「私は口がきけなかった。」という一文が、皆さんにも扱い方を考えてみていただきたい「切り口」です。実は、私の勤務校の先輩である田中美也子氏が、徹底的な教材研究を経て、竹内好氏の翻訳について、次のような指摘をしています。

「私は口がきけなかった。」(新訳)の原文にあたるところは、「我也説不出話」である。「也」のところをどう訳すかであるが、「也」(ye)という副詞は、『中日辞典』には、「『同じように……もまた。……も……も。』の意味」とある。そうなると、「却没有作声」を受けて、「(閏土は)声にならなかった。」「私も口がきけなかった。」ということになるのではないか。

(田中美也子『さまざまな読みの立場』p.37-38/教育出版)

上記の引用の「『却没有作声』を受けて」という部分に着目してください。これは、「旦那様!」と呼びかける直前のルントウの様子を描写した次の叙述の下線部の原文が、「却没有作声」であることを指しています。

彼は突っ立ったままだった。喜びと寂しさの色が顔に現れた。唇が動いたが、声にはならなかった。最後に、うやうやしい態度に変わって、はっきりこう言った。

(令和3年度版教科書p.106、15~16行目/下線筆者)

つまり田中氏は次のように指摘しているのです。魯迅の原文は、再会の喜びを口にしようとして「声にならなかった」ルントウと同じように、「我也」すなわち、「私口がきけなかった。」を意味していたのであり、竹内氏がここを「私は口がきけなかった。」と訳したことが、日本の読者のルントウ観に大きく影響しているのではないか、と。

確かに、この部分が「私も」か「私は」かでは、大きな違いが生じます。「私も」であれば、そこに共感とまではいえなくても、互いに状況を共有する二人の姿が表れてきます。喜びの表情を浮かべつつ、それを言葉にできなかったルントウと、子どもの頃を象徴する思い出たちを次々と思い浮かべつつ、何かにせき止められたように、ついに「ルンちゃん――よく来たね……。」の続きが言えなかった「私」、さらに「旦那様!」と呼びかけてはみたが、後が続けられないルントウに、「私も」応える言葉が出てこなかった、というふうに。

そして、そうであるなら、「悲しむべき厚い壁」についても、“少年時代の輝きを失い、デクノボー化してしまったと軽蔑するかのように、ルントウを突き放す私が感じる「壁」”と、“互いの隔絶に互いに気づきつつ、どちらも超えることができなかった「壁」”というのとでは、ずいぶん肌触りが異なってくるように感じます。

私たちが読む「故郷」は翻訳作品であり、竹内氏に限らず、さまざまな訳者が翻訳しています。「私も」と訳しているものもありますし、2009年に出版された藤井省三氏の新訳ではこの部分は次のように訳されています。

僕は身ぶるいしたのではないか。僕にもわかった、二人のあいだはすでに悲しい厚い壁で隔てられているのだ。僕も言葉が出てこなかった

(『故郷/阿Q正伝』p.62/光文社古典新訳文庫/下線筆者)

魯迅の文体を伝えることに注意して訳したという藤井氏の新訳では、「僕も言葉が出てこなかった」となっているだけでなく、「すでに悲しい壁で隔てられているのだ」と「僕にもわかった」と訳すことで、「ルントウも感じた壁に、僕もあらためて気づいた」と読めるように書かれていることが注目されます。そしてそう読むと、竹内訳では、「私」が「身震い」するほどに嫌悪したのは、「旦那様!」という言葉や、そう言い放ったルントウであるように感じられますが、藤井訳では「身震い」したのは、ルントウや「旦那様!」という言葉よりもむしろ、「あらためて気づいた『壁』」に対してではないか、と思えてきます。
ちなみに、藤井訳では、ルントウは二人きりのときは「私」のことを「おまえ」と呼ぶこともあったようですが、母の前では「迅坊っちゃん」と呼んでいたらしいことがわかります。これも原文に忠実な訳のようです。子どもの頃から、少なくとも年上のルントウは、二人の間には「身分の違い」があることを自覚していたようですね。

教科書の竹内訳と藤井氏の新訳を比べて論じる授業

私は現在、主幹教諭という立場になり、自分で「故郷」の授業をすることはもはや叶いませんが、今、「故郷」でどんな授業をしてみたいかと問われたら、教科書の竹内訳と、藤井氏の新訳のこの部分を読み比べて、ルントウの印象や、「私」が感じた「悲しむべき厚い壁」がどう変わってくるかを話し合う授業をやってみたいなあと思っています。
子どもたちは、私が前述したような読みをするのかどうか。そして、ルントウへの印象が変わったとき、「灰に皿を隠した」のは誰だと感じるのか。あるいは、希望をめぐる最後の述懐には何か変化が現れるのか。子どもたちといっしょに楽しんでみたいなあと思うのです。

そうそう、「厚い壁」といえば、かつて授業でいっしょに「故郷」を読んだある生徒がこんな読みにたどり着きました。最後に紹介します。

この厚い壁について何がわからないのかというと、いつできたのかということだ。作品をだんだん読み進めていくと、それは閏土に「旦那様!」と言われた瞬間のように思える。が、これは「私」が自覚しただけで、壁はもっと前からあったのではないか。……「何かでせき止められた」……この「何か」こそが厚い壁だったのではないか。……「私」と楊おばさんの会話にはずれがある。これも厚い壁の一部ではないか。もっと前に戻ろう。……「私の覚えている故郷はまるでこんなふうではなかった……」でずれがある。……「厚い壁」がいつできたのかについて考えてみると、この話が始まる以前からできていたのではないかということになる。つまり今回のこの旅は、厚い壁を自覚する旅だったのではないかということだ。

(……は筆者が省略)

この生徒は、「故郷はスルメみたいな小説」とも書いていました。かむほどに味が出てくるのだそうです。本当にいろいろな切り口から読み込んでいくと、さまざまな味が出てくる小説ですね。

宗我部義則(そがべ・よしのり)

1962年埼玉県生まれ。お茶の水女子大学附属中学校主幹教諭。お茶の水女子大学非常勤講師、早稲田大学非常勤講師。平成20年告示中学校学習指導要領解説国語編作成協力者。編著書に『群読の発表指導・細案』(明治図書出版)、『夢中・熱中・集中…そして感動 柏市立中原小学校の挑戦!』(東洋館出版社)、『中学校国語科新授業モデル 話すこと・聞くこと編』(明治図書出版)など。光村図書中学校『国語』教科書編集委員を務める。

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