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からだと言葉①――「わざ言語」から考える からだと言葉と学びの関係

教育情報誌「とことば」

2026年10月20日 更新

教室の中と外の世界をつなぐ今日的なテーマを「言葉」を切り口に追いかける教育情報誌「とことば」。
言葉のもつさまざまな側面を切り取りながら、子どもたちに言葉のもつ可能性や豊かな世界に出会わせる方法を考えていきましょう。

言葉を使ってからだが学ぶ。からだを使って言葉を捉える。私たちは、からだと言葉を使いながらさまざまなことを学んでいます。
今号では、学びの場面で、からだの動きや行動は言葉によってどう変化していくのか、身体的な学びを言葉はどう支えることができるのか、さまざまな分野での実践を通して考えます。

「わざ言語」から考える からだと言葉と学びの関係/生田久美子(東北大学名誉教授)

からだを使って学ぶとき、言葉はどのようにからだに働きかけることができるのでしょうか。そもそも学びにおいて、言葉とからだはどのように関わり合っているのでしょうか。「わざ」研究の第一人者である生田久美子先生(東北大学名誉教授)にうかがいました。

「わざ言語」とは

「わざ」は、日本古来の武道・芸道の世界における、技芸の型を意味する概念ですが、伝統芸能に限らず、芸術やスポーツなど、さまざまな世界で目ざすものとして、より広い意味で「わざ」という言葉を使っています。

学校教育では言葉の学びとからだの学びが別物として扱われがちですが、本当の知識は両者が一体となって生まれるものだと思います。そのような学びが生き続けている場として、「わざ」の世界に注目しました。

さまざまな領域で「わざ」を教える指導者たちを取材すると、指導者が学習者に働きかけるときに、いわゆる科学的な言語とは異なる独特な言語が用いられていました。それが「わざ言語」です。

比喩でからだの「動き方」を伝える

「わざ言語」の役割の一つは、からだの「動き方」や「形」を効果的に伝えることです。

例えば、日本舞踏の世界で扇子を持ち上げる所作を教えるとき。「手を右上45度の角度に上げなさい」と言うこともできます。これは誰にでもわかる科学的な言語です。ですが稽古のときには「天から舞い降りてくる雪を受けるように」という言い方をすることがあります。これは一見、所作とはまったく関係のない指示です。

弟子は「なぜ師匠はこのような言い方をするのだろう」と疑問を抱きながら、雪が降る情景を思い浮かべます。ひらひらと風に揺れながら、ゆっくりと落ちてくる雪。そっと手を差し出さないと逃げていってしまうから、手に取るには優しく手を差し伸べなければならない。こうしたイメージを通して、弟子は間接的に「師匠はこういうことが言いたかったんだ」と納得し、実感を伴った理解に至ります。

人間は、小さな子どものうちから、さまざまなことに対して「どうして?」「なんで?」を問う動物です。問い続けることは、まさに知的な営みです。「わざ」の指導者は、比喩表現を用いて学習者を問いへといざない、学習者が自分なりに考えて理解にたどり着くことを促します。このように「わざ」を学ぶときには、身体的な技能・技術の習得にとどまらず、非常に知的な営みが行われています。からだの動きも知性の一つの現れ方であり、「わざ言語」は、学ぶ者の知性に働きかける言葉なのです。

言葉にしきれない感覚を「突きつける」

「わざ言語」にはもう一つ、からだの「動き方」や「形」を超えて、自らが到達した状態の感覚を伝えようとするときに使う言葉があります。

例えば歌舞伎では「役になりきれ」とよく言います。五代目中村時蔵(現・初代中村萬壽)さんによると「その役にのめり込んでしまっていて、お客さんが目に入らない」状態だと言います。動きや形を超えた、気持ちの問題。どうすればその状態に到達できるのかは、教えることができません。

時蔵さんは、六代目中村歌右衛門のもと、『妹背山(いもせやま)』の稽古で目の使い方を教わっているときに、「おまえさんの見てるところに世界は見えないよ」とも言われたそうです。「山の端(は)の……」と言って、ふっと見たときの目の先で、お客さんも「ああ、あそこに山が見える」と一緒に山を見るような、そういうイマジネーションにいざなわなければいけないと。

映画『国宝』では、役者がこの領域に到達するさまが描かれています。人間国宝となった歌舞伎役者の喜久雄は、この先どこへ向かうのかと記者に問われ、ずっと「景色」を探しているのだと答えます。記者はさらに質問を重ねますが、喜久雄はうまく説明することができません。

映画のラストシーンで、喜久雄は「鷺娘(さぎむすめ)」を踊りきり、万雷の拍手を浴びます。ですがその音はすぐに消え、喜久雄が身を起こすと観客の姿は忽然(こつぜん)と消えています。雪が降りしきる舞台を見上げた喜久雄は「きれいやなあ」とつぶやく。恋に苦しむ女性の化身である鷺娘になりきり、雪の中で死んでいく、その「景色」が見えたことが最後に描かれています。この「景色」は歌右衛門が言った「世界」と同じことだと思います。

「わざ」を極めた人が到達する領域は、精確に言葉で表現することはできません。それでも伝えたいと思うとき、最後は「突きつける」しかなくなります。自らが到達した状態の、言葉にできない感覚をあえて言葉にして「突きつける」ことで、学習者自らが探っていくよういざなうのです。

実感を伴った学びのために

このように、「わざ」の学びの場における言葉は、学習者が自ら考え、自ら気づくように働きかけます。これは学校の学びにも通じることです。知性を働かせる喜びを共有することが、教育の役割だと思います。

子どもたちと一緒に「なんだろう」「なぜだろう」と問いかけ、一緒に考えて、それぞれが自らの答えを得ていく。それで終わりではなく、答えを得たらまたさらに、これはどうしてなんだろうと問い続ける。まさに真理の探究です。

いちばん大事なことは、共に真理に向かおうとする姿勢です。先生が一方的に言葉だけの知識を与えるのではなく、子どもたちと共に、その学びが自分たちの生きる世界の中でどういう意味をもつのか、自分たちの生活や社会とどのようにつながっているのかを、実感を伴って理解する。そのように、言葉とからだが一体となった学びが実現できれば、子どもたちの到達状態も、先生の到達状態も、どんどん広がっていくと思います。

生田 久美子(いくた・くみこ)

東北大学名誉教授・田園調布学園大学名誉教授

東北大学名誉教授、田園調布学園大学名誉教授。専門は教育哲学、認知教育学。主な著書に『「わざ」から知る』(東京大学出版会)、『わざ言語─感覚の共有を通しての「学び」へ』(編著、慶應義塾大学出版会)がある。

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