「飛ぶ教室」のご紹介
2023年4月26日 更新
「飛ぶ教室」編集部 光村図書出版
児童文学の総合誌「飛ぶ教室」に関連した企画をご紹介していきます。
「うまのこと、わたしたちのこと」少年アヤ
自らを「うま」と名乗る、男の子でも、女の子でもない主人公が、学校生活の中で感じる矛盾や理不尽さを、静かに見つめていく物語、『うまのこと』を上梓したエッセイストの少年アヤさん。物語を書き終えた今、子どもたちへの思いを綴ります。
「うまは学校がきらいだ。うまが、うまのままでいられないからいやだ。」
女の子でも、男の子でもない、うまのものがたりは、こんなふうにはじまります。
女の子でも、男の子でもないうまは、人前で自らを、どんなふうに名乗ればいいのか、わかりません。わたしも、ぼくも、おれも、ぜんぶだめ。まっくろランドセルもいやだ。
とんだわがままだと、思う人もいるでしょう。こんな変わり者が、存在してたまるかと、思う人もいるでしょう。
ところが、うまはほんとにいるのです。いま、どきどきしながら文字を目で追っているあなたには、きっとわかってもらえることでしょう。さいわいなことに、ここにはあなたとわたしだけ。だから安心して、わたしの話を聞いてってね。
わたしはあなたとおなじ、うまみたいな子どもでした。一人称はいつだって、いまでさえ、悩みの種。
幼稚園までは、ゆうちゃん、と自分のなまえを呼んでいればよかったけれど、小学校にあがったとたん、いろんなことがふたつに振り分けられて、ぼくかわたし、のどちらかをえらばなくてはいけなくなった。それにわたしが子どもだったころは、ランドセルだってまっくろか、まっかしかなかったのです(最悪でしょ)。
わたしは、すべてがいやだった。というより、どちらかを選ぶことで、なにかを決定されるのがいやだった。だって、わたしはただのゆうちゃんであって、ほかのなにものでもないのだから。
一人称については、幼なじみのお姉さんが「うち」という、どちらともつかない呼び方を教えてくれたのをきっかけに、おとなになったいまも「うち」で通していますが、はじめて会う人には、ちょっとおどろかれてしまうので、さっと小走りに「わたし」とか「ぼく」とか言って、なんとか事なきを得ています。でも、毎回すごくつかれる。
勇気を出して、おれ、と名乗っていた時期もあります。これは一人称にたいする悩みを克服するために、いっそぼくもわたしも、ぜんぶ使えるようにしてみよう、という試みの一環でした。結果として、使えば使うほど、自分のなかで作り上げてしまった意味がくずれていって、なんだ、こんなもののせいで悩んでいたのか、とまで思えるようになりました。
ですが、すっかり油断していたところに、人から「なにそれ、かっこつけてるの?」なんて言われてしまい、こころがガシャーンとなって、もう二度と使えなくなりました。いっそ英語みたく、ミーでぜんぶ済んだらいいのに。
わたしたちがこうもくるしいのは、女の子でも、男の子でもないという、わたしたちの透明な性のありかたを、みんなが知らないせいです。万が一知っていたとしても、ちょっとした気分みたいなものだと思っていて、まじめに取り合ってはもらえない。
子ども時代のわたしは、打ち明けたところで、きっとわかってはもらえない、という、漠然としたあきらめのなかを生きていました。それに、じっと口を閉じていないと、たちまち余計なものが身体に入り込んでくるのです。
じっさい、わたしは、いつも人から問われていました。あなたは男ですか。男のにせものですか。女の子になりたいんですか。その中間ですか。ピエロですか。なにかたのしいことを言ってください。
いいえ、なんでもないですと答えても、許してはもらえません。ほんとはあれなんじゃないか、とか、なにか隠しているんじゃないかとか、にやにやしながら言われる。まるで好き勝手に扱われることがあたりまえみたいに。
そんなことの積み重ねで、わたしは成長するにつれ、自分がなんなのか、わからなくなっていきました。女の子でも、男の子でもないという、いつだって胸のまんなかにあったはずの感覚が、どんどん埋もれて、見えなくなっていったのです。
暗い迷い道を抜け出し、ようやくもとの自分に戻れたときには、わたしはすでにおとなになっていました。
もちろんわたしは、たくさんの時間をかけて、わたしへと還る旅を成し遂げた自分を、誇りに思っています。
だけどあなたには、こんな思いをしてほしくない。みじかい子ども時代を、のびのびと生ききって、楽勝でおとなになってほしい。
そのために、わたしができることはなんだろうと考えたとき、生まれてきたのが、うまという子のものがたりでした。
うまはぼく、ともわたし、とも言いません。仕方がなく言うとしたらぼく、だけれど、そのときは、「のどのおくから、いがいがしたでかい玉が、ずどーんと出ていった」ような気分になると言います。
うまは、自分のことを、うまとしか言いたくありません。みんなのまえで口にする勇気はないけれど、でもぜったいにゆずらない決め事として、こころに隠し持っています。
そう、わたしたちと同じ。
わたしは子どものころ、うまみたいな子に会いたかった。クラスにいないのなら、絵本や、まんがや、テレビのなかに、いてほしかった。そして、すぐにへこたれちゃうわたしの代わりに、がんこでいてほしかった。ひとりぼっちじゃないって、教えてほしかった。
そうです。だからうまは生まれてきたのです。
かつてのわたしの、そしてあなたの、はじめてのお友だちになるために。
そしてわたしたちのことを、みんなに知ってもらうために。
もともとは一回きりの、みじかいお話の主人公だったうまですが、書き上げてからしばらくしても、うまはわたしのなかでしゃべりつづけました。こういうことがあったよ。あの人はああいうふうになったよ。わたしはうんうんと頷きながら、キーボードを叩いているだけでした。まるで指揮に合わせてピアノを弾くみたいに。
やがてうまはみじかいお話を飛び出し、雑誌を何冊もまたぐ長いものがたりになった末、とうとう一冊の本になりました。それには、うまとわたしだけじゃない。親身になってくれる編集者さんや、すばらしい絵をつけてくれる人、デザインをしてくれる人、そしてこの本を、あなたの町へ届けるためにがんばってくれる、おおぜいの人の力が働いています。
なかには、わたしたちの悩みなんて、ぜんぜんわからないって人もいるかもしれません。でも、現にその人だって、こうして力を貸してくれました。
つまりこの本が、ただ存在するというだけで、わたしが、そしてあなたがひとりでないという証になるのです。これはわたしが子どもだったころには、世界のどこにも存在しなかった、すばらしい事実です。おおげさに聞こえるかもしれないけど、でも、ほんとにそうなんだよ。
透明な性を持った、最高のあなたへ。あるいは、どこにいても、しっくりこないあなたへ。
人とちがうということは、いろんなものがうすく、便利になった現代においても、まだまだ心細いのかな、と想像します。多様性とか個性なんていう言葉をまえに、自分だけは助からないような、むなしい気持ちになる日もあるでしょう。
だけど、くるしみや、ぜつぼうは、みんなわたしが済ませておきました。だから、あなたはそんなもの、経験しなくって大丈夫。
だけどもし、あなたがさみしくてたまらないのだとしたら、うまという子が、きっとあなたの、よい友だちになりますように。
そしておとなになったいまも、子ども時代の傷を抱えつづけているあなたや、ひとりぼっちでいるだれかの味方になりたいという、やさしいあなたにも、このものがたりが届きますように。
祈っています。
少年アヤ(しょうねんあや)
1989年生まれ。エッセイスト。著書に『尼のような子』(祥伝社)『焦心日記』(河出書房新社)『果てしのない世界め』(平凡社)『ぼくは本当にいるのさ』(河出書房新社)『なまものを生きる』(双葉社)『ぼくの宝ばこ』(講談社)『ぼくをくるむ人生から、にげないでみた1年の記録』(双葉社)『うまのこと』(光村図書)がある。
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