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第2回 「書く力」を再定義してみよう

生成AIがひらく国語教室の未来

2024年10月21日 更新

渡邉 光輝 お茶の水女子大学附属中学校 教諭

開発が進む生成AIの技術。これからの国語の授業にどのような変化をもたらしうるのか、実践を交えながら考えます。

第2回 「書く力」を再定義してみよう

生成AIを使うと、書く力は育たない?

第1回でいくつか挙げたように、国語科の授業でも生成AI(以下、AI)を使った実践をあれこれ試行し、そしてそれを他の先生方にも紹介している。
その際に、ほぼ100%、この質問が出てくる。「AIを使うと、書けなくなるのではないか」とか「将来、書くための脳の機能に影響が出る危険性があるのではないか」とか、その疑念の言い回しにはいろいろなバリエーションがある。

それに対して、私ならこう答える。
「文章を書くことそのものの力は伸びないけど、別の力が引き出される可能性はないか」と。
言い換えるとそれは、「編集力が引き出されるのではないか」ということだ。

私が修士論文として取り組んだ研究テーマは、「編集力」だ。
その研究の過程で、雑誌編集者さんにもヒアリングをしたら、目からウロコの発見がたくさんあった。そのいちばん大きなものは、「編集者は文章を上手に書けなくてもいい」というものだった(ご本人の言葉を借りれば、「編集者は無能でいい。文章を書けなくてもいいんです」と。この「無能」というワードチョイスに、いったいどんな思いが込められていたのか)。
この取材を通して私が見いだした、編集者に求められる力とは、「どんな素材を、誰に向けて、どういう切り口で加工して、どう魅力的に演出するか、その方針や戦略を考えること」だった。
「文章を上手に書く」のはライターさん、「紙面を魅力的に整える」のはデザイナーさん。その方々に仕事を振るために、編集者はディレクション(管理・調整・監督)をする。そのコラボレーションで、魅力ある出版物を仕上げる。編集という業務には、そういう役割がある。

「編集力」のイメージ画像

 私たちは、本や雑誌を読んでいると、通常は書き手にだけしか目を止めない。国語の授業だって同じだ。「筆者は、どういう意図でこの文章を書いたのか」とは生徒に問うけれども、「編集者はどんな意図で……」と問うことはまずない。けれども、出版された文章の向こう側には必ず、「文章を書かない」編集者さんの存在がある。
つまり、編集者は、文章を書いてはいないけど、作っている。編集者は、文章を作る力をもっている。

これと同じような関係は、あらゆる業界で見いだされる。

例えば、野球やサッカーなどのスポーツの選手と監督。
仮に選手時代は鳴かず飛ばずの成績だったとしても、いざ監督になると、チームがすばらしい成績を残したり、名選手を育てたりする方がいらっしゃる。プレイする力と、監督として采配を振るう力は、重なる部分はあるにしても、別の力とみなしてもよさそうだ。

オーケストラの演奏者と指揮者。
私はクラシックが大好きでよく聴くけれども、指揮者もいわば編集者だ。指揮者の中にもたまに、「弾き振り」といって演奏しながら指揮する方もいらっしゃるが、ほとんどは、音を出すことは演奏者に任せる。指揮者は作品を解釈し、それを的確に演奏者に伝え、テンポや響きを調節することに全神経を集中させる。楽器を演奏することと、指揮をすることには、また別の力が要求される。

生成AI時代の「書く力」とは

……と、ここで最初の話を回収しよう。
AIを使って文章を書くことは、サッカーの監督、オーケストラの指揮者になることに近い。文章を書くのはAIに任せることができる。が、どんな素材を用い、誰に向けて、何のために、どのようなトーンで表現するか、その一つ一つに人間が的確に指示を出すことで、より意図や目的に沿った文章に整えられていく。
AIを使って文章を作る際に必要なのは、このような、「表現全体をディレクション(管理・調整・監督)する力としての編集力」である、と。

国語教育において「書く力」といえば、現状では「自分で鉛筆を持って文章を書く力」とほぼ同義だ。これはあたかも「演奏する力」とは「オーケストラで楽器を演奏する力」のみを指すと言っているようなもので、視野が狭すぎるのではないか。指揮者の存在を無視してはいないか。
AIの登場は、この「書く力」を再考するよい機会ではないだろうか。「書く力」は必ずしも物理的に文章を書く力だけを指すのではなく、表現する力全般を指すべきだ。つまり、文章の内容や構成、目的、そして読者への意識をもち、文章を方向づけ、洗練させる力も、「書く力」の一部として捉えてもよいのではないか。

こう考えてみると、AIを使うことは、「書く力」を奪うのではなく、「新しい形の書く力」を引き出し、育てる一助となる可能性があることが見えてくる。生徒がAIに指示をし、材料を与えて文章を作らせ、その文章を評価し、修正し、最終的に完成させるプロセスは、まさに編集者が行っている作業そのものだ。AIを操って文章を作り出していくプロセスによって、生徒は文章を「書く」というよりは、文章を「作る」能力を育てることができる。

教師の視点からAI時代の「書く力の育成」を捉えるなら、これは、「完成主義」の作文教育ではなく、「プロセス重視」の作文教育への転換がより求められるということともいえる。つまり、完成した文章のよしあしを評価するというよりは、どのように生徒が編集者目線でAIを操り、文章をより練り上げようとしたか、その編集力を発揮させていくプロセスを捉え、伸ばし、評価するという視点だ。「編集者であるあなたは、どんな意図でAIを……」と、生徒に問うのだ。

この視点で、AI時代の国語教育における「書く力」を捉え直し、編集力を含めた表現力を引き出せるように目ざすべきだろう(もっといえば、AIはマルチモーダル(※)なものへと展開することが必至なので、文章生成に限らず、映像、音声などあらゆる表現媒体を対象とする編集力の育成が、今後は学校教育の射程に入ってくるだろう。国語科で担うかどうかはまた別の議論だけど)。

「生成AIを使うと、書く力は育たない」という疑念に対しては、私は、「書く力の定義を広げ、編集力も含めた表現力を育てるためのツールとして捉え直してみては」という提案をしたい。

※マルチモーダルAIとは、テキスト・音声・画像・動画など、複数の異なる種類のデータから情報を収集し、それらを統合して処理するAIシステムを指す。

Illustration: ネコポンギポンギ 

渡邉 光輝(わたなべ・こうき)

お茶の水女子大学附属中学校 教諭

千葉県生まれ。千葉大学大学院修了。千葉県の公立中学校教諭、千葉大学教育学部附属中学校教諭を経て、現職。表現教育、情報活用能力育成、メディアリテラシー教育、ICT活用を中心に研究・実践に取り組む。共著書に『中学生を作文好きにする!新レシピ60&ワークシート』(明治図書出版)など。

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