みつむら web magazine

Story 3 「なんだろう」ってなんだろう?

道徳って、なんだろう

2018年3月8日 更新

ヨシタケシンスケ 絵本作家

「物事を多面的・多角的に考える」ことが、「特別の教科」となった道徳で重視されています。それを端的に示す教材として、小学校の教科書では、「なんだろう なんだろう」というコラムを設けました。今回は、その作者である絵本作家のヨシタケシンスケさんに、教材に込めた思いを語っていただきました。(取材日:2017年10月25日)

そんなふうに一つ一つ大事に作っていただいた教材が、いよいよ今年の春から使われます。子どもたちの反応が楽しみですね。

 

うれしいですね。僕はこのページにはいっぱい“落書き”をしてほしいんです。僕の作品の場合、適度な余白もあって描きやすいはずですし。問いかけに突っ込んでみたり、全然違うセリフを書いてみたり、さまざまにカスタマイズしてくれたら嬉しいなと思っています。「なんだろう なんだろう」の下に「知らねえよ」とか「うるせえよ」みたいなことを汚い字で書いてもらって、そこで本当の“完成”という感じだと思っています。落書きの募集をしたいぐらいです(笑)。

ヨシタケシンスケ

大人が思わず唸らされるような突っ込みがあるかもしれませんよね(笑)。ヨシタケさんが他にも考えている「なんだろう」ってありますか。

 

なんだろうな(笑)。いくらでもあるので、すぐには思いつかないですね。

ただ、「なんだろう なんだろう」って、「理由があるはずだ」というのが前提になっているわけですね。その理由が納得できれば、問題全体を納得できるはずだという、論理的で人間的なことなのです。例えば食べ物が目の前にあったとして、動物であれば「なんだろう」とは思わずに「餌だ、食べる」ということになると思うんですよ。「なんであそこに餌があるんだろう」「なんでお腹が空くんだろう」と理由を考えてしまうのは人間のクセから来ているはずです。

根源的なことを言ってしまうと、「なんで理由があるんだろう」「なんで人間は理由を探そうとしてしまうんだろう」ということになりますよね。全てのことに理由なんてないはずで、理由はないんだけど、理由がないということには理由がある。もともとないのに、人間が勝手に作ったから、という理由です。つまり理由がないことには理由があるし、理由があるということには理由がない。

「なぜ理由があるのか」を突き詰めていくと、堂々巡りになって、それもそのはず、言葉で言葉を説明しているだけの話なので、答えはないんですよ。「なんだろう」という病気ですね(笑)。

「幸せって何だろう」「自分って何だろう」とそれぞれの言葉に対して疑問をもって考えていくと割と早い段階で「ちょっと待てよ」となるはずなんです。自分が「なんだろう」と考えていることってなんだろうという、メタ思考が生まれてくる。「何でそれを知りたいと思うんだろう」「好奇心がどこから来るんだろう」ということですね。

 

「『なんだろう』ってなんだろう」ということでしょうか。そういうことを突き詰めたいという気持ちがあるんでしょうね。

 

そうですね。人間には、食欲や睡眠欲と同じように、納得したいという「納得欲」があるのではないかと思ったことがあります。どうして世界ができたのか、宇宙の始まりが何なのかを納得したい人もいるし、何でお隣さんがいつもいい服を着ているのかを納得したい人もいる。この二つは高尚な疑問、下品な疑問とみられがちですが、どちらも同じで、人間の脳の作用として「納得したい」、そのことで気持ちよくなりたいという快楽みたいなものを追い求めているんじゃないかという気がするんです。常に疑問を抱いてしまう、知りたくなってしまうというのが人間の一つの業であって、仏教でいうところの「解脱」「涅槃の境地」はそういうところからの解放なんじゃないかな、と。そして、別に知る必要はない、わからなくても生きているんだ、というのが一歩高い悟りの部分なんじゃないかなと。壮大でしょう?

ヨシタケシンスケ

ヨシタケさんが「『なんだろう』ってなんだろう」と思われたのは、いつぐらいからなんですか。

 

中学生ぐらいでしょうか、まさに思春期の頃に知った「ものは言いよう」という言葉がきっかけでした。どんなことでも言い方一つで別の意味になってしまうんだなと気づいたわけです。例えば「友達」でいうと、「互いを高め合う存在」ともいえるし、「互いに利用し合う存在」ともいえる。起きている現象に対して名前を付けるのに、いい言い方も悪い言い方もできると気づいて絶望したことがありました。だんだん大人になるにつれて、何とでもいえるんだったら、ちょっとでもいいようにいえばいいな、という知恵がついていくわけですが。子どもの頃の僕に「物は言いようで、こういう言い方もできるし、こういう言い方もできる。それはあなたが選べることなんだよ」と言ってくれる何かがあれば、救われた場面がたくさんあったはずなんですね。

絵本を描いていて思うのは、そういう新しい言い方の提案ができればいいなということです。何か物を考えるときに、選択肢は多いほうがいいわけで、「そうか、あの絵本ではこういう言い方もしていたな」と、読んでくれた子の選択肢が一つでも増えればいいなと思います。ですので、いつも絵本では、割と極端な一つの例が出せるように考えています。

 

5年生の「生きる『しあわせ』って、なんだろう。」の「ほうたいくん」がまさにいい例ですね。マジック1本で気持ちが楽になる。

 

一方で、いわゆる道徳的なものというのもやはり必要だと思うんです。僕の教材も、昔感じた「道徳の授業って、堅苦しくて嫌だな」とか「価値観の押しつけみたいなものはどうかな」というのが出発点になってできているわけですし、子どもたちもそうした嫌な感覚があって初めて、自分で何かを選ぼうとし始めるわけです。だから最近は、何かを押しつけるというのも大人の大事な役目なんだなと思いますね。

さっきの、僕の教材には落書きをしてほしいという話をしたんですが、落書きをされるということは、何かしら「引っかかることがある」ということですよね。子どもたちが「なんだろう なんだろう」を教科書の他のページと何か違う、と感じてくれたら嬉しいし、その違和感ってそれこそ「なんだろう」と思ってくれたら何よりです。

ヨシタケシンスケ

photo: Shunsuke Suzuki

ヨシタケシンスケ

1973年神奈川県生まれ。筑波大学大学院芸術研究科総合造形コース修了。絵本や児童書の挿絵、イラストエッセイなど多方面で活躍。光村図書からは児童文学雑誌「飛ぶ教室」で、「日々臆測」を連載中。2019年12月には、絵本『なんだろう なんだろう』が発売された。主な絵本に、『りんごかもしれない』『ぼくのニセモノをつくるには』『もうぬげない』『このあと どうしちゃおう』『ころべばいいのに』(ブロンズ新社)、『りゆうがあります』『ふまんがあります』(PHP研究所)などがある。

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