
子どもたちが他者理解を実感する道徳科授業を
2025年6月5日 更新
久我隆一 調布市立上ノ原小学校 指導教諭
子どもたちが多面的・多角的に考え、その結果として「他者とのちがい」と向き合い、「他者とのちがい」を受け止められるにはどうしたらいいのか考えていきます。
教科と生活をつなぐ「道徳科の授業」
前回、国語科と体育科における「他者とのちがい」を学びの対象にした実践をご紹介しました。国語科では「想像のちがい」を、体育科では「感覚のちがい」を学びの対象にすることによって、それぞれの教科の「おもしろさ」を実感することができるとお示ししました。教科は異なりますが、「想像」も「感覚」も迫っていくと「答えがひとつではない」という点が共通しています。「決まった答え≒正解」がひとつではないからこそ、「他者とのちがい」を学びの対象にすることができるのだと考えられます。
ただ、国語科と体育科で「他者とのちがい」と向き合うことができたとしても、子どもたちが「あくまでも教科教育の中で味わえたことだ。」と捉えてしまう可能性があります。しかし、決してそのように「教科」と「生活」は切り離せるものではありません。むしろ、「教科」で学んだことが「生活」にも関連してこそ、子どもたちの生きた学びになっていくのだと考えられます。そして、その「『教科』と『生活』がつながる実感」を味わいやすいのが特別の教科である「道徳科の授業」です。では、私が行った具体的な実践を通して、道徳科の授業で向き合う「他者とのちがい」について考えてみたいと思います。
「価値観のちがい」を味わう道徳科の授業
「ロレンゾの友達」という教材をご存じでしょうか。このお話は、ロレンゾから3人の懐かしき友へ手紙が届くところから始まります。手紙には2日後の夕刻に会いたいというメッセージが書かれています。しかし、3日前に酒場で「警察がお金を持ち逃げしたロレンゾを探していた。」という噂を聞いたことから、3人はどうするか悩みます。2日後、約束通りに待ち合わせ場所に来た3人でしたが、ロレンゾは現れませんでした。そこで「夜中にロレンゾが現れたらどうするか」を話し合います。3人の友は、それぞれの考えを述べます。アンドレは「お金を持たせて逃がす。」と、サバイユは「自首を勧める。でも、納得しなければ逃がす。」と、そしてニコライは「自首を勧める。でも、納得しなければ警察に通報する。」と異なる見解を示します。そして、家路につきます。
お話はこの先も続きますが、私はここで切り、子どもたちに「あなたは、ロレンゾが現れたらどうしますか。」と問いました。さて、みなさんはどうするでしょうか。
子どもたちに聞いてみると、「酒場の噂をどこまで信じるのか疑問が残る。」「ロレンゾのことを信じたい。」と「ロレンゾを信じる気持ち」を優先してアンドレに共感している考えが出てきました。他方、「罪を犯した人は友達ではない。」「逃がしたら自分も罪になってしまう。」「友達だからこそ、罪を償ってほしい。」と「善悪の判断」や「法律」を優先してニコライに共感している考えも出てきました。はたまた、「本人が納得して自首をしないと意味がない。」「この件に深くかかわらないという選択が最もよい。」と「本人の意思」を優先するサバイユに共感している考えも出てきました。
しかし、私は子どもたちに「どの人に共感するか」や「本当の友情はどの考えだと思うか」などと問いかけ、「3人のうち、どの考えが正しいのか」について考えてほしかったわけではありませんでした。むしろ、「本当にこのお話の世界に自分も存在していたとしたら」あるいは、「現実の世界で自分の友達が罪を犯したという噂が流れてきたとしたら」といった「あなたが当事者であったらどうするか」を考えてほしかったのです。なので、子どもたちに「このお話の世界に本当にあなたがいたとしても、同じように考えられますか。」と問いました。そうすると、子どもたちから「噂と友達だと、どちらを信じるか」「罪を犯したことがある人を、友達として認められるのか」「お金を持ち逃げした理由によって、自分の判断も変わるのか」といった新たな問いが生み出されていきました。生み出されたこれらの問いについて話し合うと、「一度の失敗は許してあげたい。」と述べる子がいれば、反対に「警察に捕まるほどの罪を許すことはできない。」と述べる子もいました。「警察が出てくると噂も信じてしまう。」と述べる子がいれば、反対に「本人に聞いていないことは信じない。」と述べる子もいました。子どもたちは「ロレンゾの友達」について話し合うことを通して、「自己の価値観≒自分が大切にしたいと考えていること」と向き合っていました。そして、自己と他者の間に「価値観のちがい」があることに気づいていきました。
「決まった答え≒正解」を求めるような授業では、このような「価値観のちがい」に気づくことは困難です。「他者とのちがい」を学びの対象にして、「どの子の考えも否定されるべきものではない」という考えのもと、子どもたちの「ちがい」を受け止めながら授業を進めることによって、子どもたちが「自己の価値観」とも向き合うことになっていくのだと考えられます。
授業の最後に、お話の続きを読み、子どもたちに「本時のふり返り」を書いてもらいました。子どもたちのワークシートには、「本人の意思を優先することが大切だと思う。」「相手を信じてあげたいと思う自分と、罪やリスクというのを気にしてしまう自分がいるかもしれない。」「何より自分の人生については、自分で決めたい。」「罪悪感を背負って生きるのは嫌だから、何より法律を優先したい。」といったさまざまな考えが記されていました。「他者とのちがい」と向き合い、「多面的・多角的に考えること」ができたからこそ、子どもたちのふり返りがこのような内容になったのだと、私は捉えています。
「教科の学び」を関連させる意味
道徳の授業にこのようなやり取りができるようになってくると、子どもたちは徐々に「自分とは異なる他者」を否定しなくなっていきます。なぜなら、子どもたちにとって「他者とのちがい」は「比較するもの」でも「競うもの」でもなく、「自分にはなかった新たな気づきを与えてくれるもの」へと変わっていくからです。
お示ししてきた国語科、体育科、道徳科という三つの学びを通すことで、少しずつ「教科」と「生活」をつなげ、子どもたちは「多面的・多角的に考えられる」ようになっていきます。そして、その結果として「他者とのちがい」と向き合い、「他者とのちがい」を受け止められるようになっていくのです。
Illustration: こずまも
久我 隆一(くが・りゅういち)
調布市立上ノ原小学校 指導教諭
東京学芸大学附属竹早小学校教諭、調布市立八雲台小学校主任教諭を経て、現職。
専門の体育科のみならず、国語科、道徳科の研究、実践に取り組む。
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