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第2回 「ちがい」を味わう国語科・体育科の授業

子どもたちが他者理解を実感する道徳科授業を

2025年5月29日 更新

久我隆一 調布市立上ノ原小学校 指導教諭

子どもたちが多面的・多角的に考え、その結果として「他者とのちがい」と向き合い、「他者とのちがい」を受け止められるにはどうしたらいいのか考えていきます。

「想像のちがい」を味わう国語科の授業 

次の短歌を読んで、あなたはどのような場面を想像しますか。

「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ

これは俵万智さんの『サラダ記念日』(河出書房新社)に載っている短歌です。この歌を読んだときに、みなさんはどのような想像をしたでしょうか。「寒いね」という言葉から、季節は「冬」を想像したのではないでしょうか。また、語尾を「ね」にしていることや応答していることから「2人のやり取り」であると想像したのではないでしょうか。このように、ひとつひとつの言葉に立ち止まれると、その情報から「冬」「2人」といった「他者と共有できるイメージ」をもつことができます。

しかし、「場所」「時間」「性別」「年齢」を問われるとどうでしょうか。同じ文章であっても「夜にテレビを見ながら、老夫婦がこたつに入って話している。」「女の子2人がポケットに手を入れながら下校している。」「夕方に若いカップルが公園のベンチで肌を寄せ合いながら話している。」とさまざまなイメージを膨らませることができます。人は経験してきたことやもっている知識を使って、想像を広げます。なので、同じ文章を読んだとしても、生まれてから経験してきたことや、習得してきた知識が異なる他者とは「想像のちがい」が生じるのです。この「想像のちがい」こそが「学校」という場で他者とともに味わうことができる「国語科の学びのおもしろさ」のひとつだといえます。

「想像のちがい」を味わえるのは、決して「サラダ記念日」だけではありません。例えば、長きにわたり教科書に載っている「ごんぎつね」で考えてみましょう。「ごんぎつね」に出てくる「ごん」はどのようなきつねだと想像できるでしょうか。「うなぎを盗んだ」という出来事や「子ぎつね」ではなく「小ぎつね」と形容していることに立ち止まれると、「兵十が取ったうなぎを盗んでしまったきつね」「いたずら好きな小さいきつね」と人物像を想像することができます。「ごんぎつね」でも、叙述に着目することさえできれば「他者と共有できるイメージ」をもつことができるでしょう。

では、「兵十が漁をしていた川はどのような川だったか。」を想像してみてください。子どもたちは「川」にどのようなイメージをもつでしょうか。夏休みに川遊びをしたことがある子どもは「兵十は頑張って魚を捕っていたんだろう。」と想像するかもしれません。他方、「川の氾濫」を間近で見たことがある子どもは「三日も雨が降った後の川なんて、絶対に入ってはいけない。」と命の危険まで想像するかもしれません。このように、子どもたちがもっている経験や知識によって、叙述から捉えられる「川」のイメージが変わります。その結果、ごんがした「いたずら」に対する「兵十の気持ち」についても想像が変わっていきます。つまり、「ごん」が起こした行動や出来事の意味すら、「読者」によって「想像のちがい」が生じるのです。

活字で書かれ余白が残っている物語文では、他者との「想像のちがい」が生じ、「そういう想像もできるのか」と他者の想像から学ぶことができます。「想像のちがい」が「国語科の学びのおもしろさ」を実感することにつながっていくのです。

「感覚のちがい」を味わう体育科の授業

今から簡単な動作を言葉で示します。ぜひ、みなさんも複数名で実際に動いてみてください。

膝をぐっと曲げて止まってください。

さて、みなさんは「ぐっ」という言葉からどのくらい膝を曲げたでしょうか。「少し膝を曲げて『くの字』のようになっている姿」「椅子に座るように膝を90度に曲げている姿」「おしりが地面につくほどにかがんでいる姿」など、言葉から生み出された動きにはちがいがあることに気づけるのではないでしょうか。人の身体には「感覚のちがい」があります。なので、同じ言葉を受け取っても、その言葉から受け取る身体のイメージは人によって異なるのです。

実際の授業を思い浮かべて考えてみます。以前、子どもたちとマット運動に取り組んでいた際に、次のようなやり取りがありました。タカオとヒロシは、「後転」をできるようにしようと熱心に練習していました。何度も練習をくり返して、どうにか2人とも後転ができるようになりました。教師が「どうして後転ができるようになったの?」ときくと、タカオは「ずっとおへそを見ていると、猫背になって回りやすくなった。」と答えました。一方、ヒロシは「ずっと前を向いていると、自然と回っていくので、おへそを見ることができた。」と答えました。2人とも「回るために猫背になる」という「目ざしている姿」は同じでしたが「意識していること」は異なっていたのです。猫背になるために、タカオは「おへそを見ること」が必要だと考えていました。しかし、ヒロシは「前を見ながら回ること」が猫背につながると考えていました。つまり、両者には「感覚のちがい」があったのです。この2人のやり取りを聞いていた他のクラスメートは、2人の「感覚を表現しようとした言葉」を受け取り、「やってみよう」とマットの方に駆け出していきました。すると、「ぼくはおへそを見ていた方がやりやすいな。」「確かに、視点を前に定めると回りやすいかも。」「いや、顎を引くといいかも。」「顎を首の根元にくっつけるんだ。」と、次々に子どもたちの声が聞こえてきました。子どもたちの気づきから、同じ後転という技が「できた」としても、取り組んでいる最中に感じている「感覚」には、人によって「ちがい」があることが伝わってきました。

このように、人には「感覚のちがい」があるからこそ、自分とは異なる「他者の感覚」をヒントにして、自分が感覚をつかむきっかけを得られることがあります。体育科の授業で、どうにかオノマトペを使って感覚を表現しようとしている子どもがいたり、相手の補助をすることで身体を通して感覚をつかもうとしている子どもがいたりするのは、まさに他者との「感覚のちがい」を交流、共有しようとしている姿だといえます。つまり、他者との「感覚のちがい」が「多面的・多角的に考える機会」をつくるとともに、「体育科の学びのおもしろさ」を実感することにつながっていくのです。

Illustration: こずまも

久我 隆一(くが・りゅういち)

調布市立上ノ原小学校 指導教諭

東京学芸大学附属竹早小学校教諭、調布市立八雲台小学校主任教諭を経て、現職。
専門の体育科のみならず、国語科、道徳科の研究、実践に取り組む。

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