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第1回 “本質”を洞察する

道徳授業で哲学鍋を

2024年6月7日 更新

苫野 一徳 熊本大学大学院准教授

教育情報誌「道徳科通信」の連載のウェブ版です。「哲学鍋」とは、みんなの考えをもち寄りぐつぐつ煮込みながら、みんながおいしいと思える味(より本質的な考え)に仕上げていく営みをイメージしたものです。

哲学とは何か?

わたしは一言で、「本質洞察に基づく原理の提示」の営みであるといっています。
教育とは何か? 道徳とは何か? 恋とは何か? 幸せとは何か? よい社会とは何か?……
哲学は、こうしたさまざまな事柄の“本質”、つまりいちばんの根っこ、根本を、とことん考え抜いて解き明かします。そしてそれを土台に、これらにまつわるさまざまな問題を解き明かす考え方(原理)を提示するのです。

「教育とは何か」が十分に理解されなければ、わたしたちは、何を目指して、どんな実践をしていけばいいか、わからなくなってしまうでしょう。それぞれの教育観や主義主張が、激しく対立してしまうこともあるでしょう。
同じように、「道徳とは何か」がわからなければ、道徳教育において、わたしたちは何をどのように実践していけばよいのかもまた、よくわからなくなってしまいます。

物事の“本質”を洞察することを本領とする哲学は、その意味でとても大事なものなのです。

“本質”とは“共通了解”可能な考え方のこと

“本質”とはいっても、それはもちろん、「絶対に正しい真理」のことではありません。できるだけだれもが、「なぁるほど、それは確かに本質的な考えだ!」とうなってしまうほどに考え抜かれた“共通了解”可能な考え方。それがここでいう“本質”の意味です。

先にも挙げた、「よい社会とは何か」といった哲学的なテーマについて話し合うとき、わたしたちはついつい、「それって人それぞれだよね」で済ませてしまうことがあります。
でも、多様な人たちが共存せざるを得ないこの社会の中では、わたしたちは、「よい社会なんて人それぞれだよね」で済ませるわけにはいきません。絶対王政を「よい」と思う人がいてもいいし、全体主義の社会を「よい」と思う人がいてもいい、などというわけにはいかないのです。
「みんな違ってみんないい」は、確かにすばらしい考えです。でもこれは、ともすれば、あからさまな暴力支配も、ナチスのような全体主義も、最後の最後で批判することのできない「なんでもあり」の考えになってしまいかねないのです。

今日の民主主義社会は、1万年以上におよぶ人類の戦争の歴史の中で、哲学者たちが、長い思想のリレーの果てにわずか250年ほど前に見いだした「よい社会」の“本質”です。
むろん、これは絶対に正しい社会の在り方ではありません。「よい民主主義社会」の内実についても、わたしたちは今後もっと深めていかなければなりません。でも、まずはだれもが「なぁるほど、それは確かに『よい社会』についての本質的な考え方だ」という考え方を見いださない限り、わたしたちはこの社会をどうつくっていけばよいかわからなくなってしまうのです。

わたしたちの人生には、「人それぞれ」や「みんな違ってみんないい」では済ませられない場面が多々あります。対立や争いを避けたり終わらせたりするために、「ここまでならみんなが納得できる」という“共通了解”可能な考えにたどり着かなければならないときもあるのです。
哲学は、このような“本質”“共通了解”を洞察するための思考法を、2500年の長きにわたって鍛え上げてきました。
わたしもまた、近年、その思考法を、だれもが実践できる「哲学対話」の方法として提案し、老若男女問わず多くの方々と続けています。

本質観取とは

それを「本質観取」といいます。まさに、道徳とは何か、教育とは何か、恋とは、幸せとは、よい社会とは、といったテーマの“本質”を、みんなで考え、共通了解可能な言葉にして描き合っていく対話です。
その具体的な方法や模様については、これからの連載で存分にお伝えしたいと思います。より詳しく知りたい方は、西研『哲学は対話する』(筑摩書房)や、拙著『はじめての哲学的思考』(筑摩書房)、『ほんとうの道徳』(トランスビュー)などをご参照いただけると幸いです。

今回は、この「本質観取」を道徳科の授業に取り入れることの提案と、その意義について、最後にお伝えしたいと思います。

「考え、議論する道徳」がいわれていますが、その際、子どもたちが先生の望む答えを探っていくような授業は言うまでもなく、その反対に、「結局のところ人それぞれだよね」で終わってしまうような授業も、わたしは問題だと考えています。
異なる他者どうしの対話の希望を、それはいくらか失わせてしまうものであるからです。どれだけ対話を重ねても、いつも最後は「人それぞれ」で終わってしまうのであれば、わたしたちは何のために対話をしてきたのかわからなくなってしまいます。

対話の希望は、人それぞれ考えの違うところがあることを認めながらも、なお「ここまでなら納得できる」という“共通了解”を見いだし合うところにこそある。わたしはそう思います。そしてそれは、まさにみんなで見いだし合った“共通了解”ですから、学習指導要領が注意を呼びかけている、「特定の見方や考え方に偏った」ものではありません。本質観取は、より深い“共通了解”のために、つねに新たな問い直しに開かれているものなのです。

もう一つ、重要なことがあります。学習指導要領は、「道徳的な判断力、心情、実践意欲と態度を育てる」ことを道徳科の目標としていますが、例えば「誠実」にしても「正義」にしても、その“本質”が不明確なままで、わたしたち(子どもたち)はその判断や実践をすることなどできるでしょうか。
それは、コンパスなき航海に等しい。わたしはそう思います。単なる「人それぞれ」では終わらない、“共通了解”可能な「道徳的価値の自覚」「道徳的諸価値の理解」なくして、「道徳的な判断力、心情、実践意欲と態度」を育むことなどできないはずなのです。

道徳には、絶対に正しい答えなどありません。でもだからこそ、どこまでであれば、多様で異質な人たちが“共通了解”可能な考え方にたどり着けるかを考え合う。考え合い続ける。道徳科の授業の最大の意義は、ここにこそあると、わたしは考えています。
そんな共通了解を見いだし合う対話の方法こそ、これからこの連載でお伝えしていく「本質観取」なのです。

タイトルイラスト: 霜田あゆ美

苫野 一徳(とまの・いっとく)

熊本大学大学院准教授

1980年兵庫県生まれ。熊本大学大学院教育学研究科准教授。専門は哲学、教育学。著書に『親子で哲学対話―10分からはじめる「本質を考える」レッスン』(大和書房)、『愛』(講談社)、『学問としての教育学』(日本評論社)など多数。光村図書 小・中学校「道徳」教科書編集委員。

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