
道徳授業で哲学鍋を
2024年7月29日 更新
苫野 一徳 熊本大学大学院准教授
教育情報誌「道徳科通信」の連載のウェブ版です。「哲学鍋」とは、みんなの考えをもち寄りぐつぐつ煮込みながら、みんながおいしいと思える味(より本質的な考え)に仕上げていく営みをイメージしたものです。
子どもたちと定期的に続けている「本質観取」の会。今回のテーマは、「希望」って何だろう? みんなが納得できる“本質”を言葉にして探り出す、哲学対話の始まりです。
「希望」の本質がわかれば、どんないいことがあるだろう?
苫野:
じゃあいつものように、「希望」の本質がわかればどんないいことがありそうか、皆さんの考えを聞きたいんだけど……。いきなり僕の愚痴(ぐち)ですみません。生きてると、やっぱりつらいこと、たくさんあるよね。最近もいろいろあってさ(涙)。そんな時、希望の本質がわかると、どうすれば希望がもてるかなって、考えていくことができる気がする。皆さんはどうだろう?
しおん(小6):
希望の本質がわかれば、将来のこともしっかり考えられるかなって思います。
苫野:
おお~いいね。じゃあそのあたりを意識しながら、みんなで本質観取をやっていきましょう。
「希望」の事例を挙げていこう
苫野:
まずは、これは「希望」と言えるぞっていう事例を、たくさん挙げていきましょう。いろんな事例を通して、「希望」に共通するキーワードが見えてくるはず。
ようた(中3):
冬休みの課題が直前まで終わらなくて、必死でがんばって、最後の最後で終わりそうだっていう可能性が見えた時は、希望を感じますね。
全員:
あ~わかる!
苫野:
他にどうかな?
にき(中2):
なくしものをした時に、誰かが「あそこで見たよ」みたいなことを言ってくれた時は、希望がわいてきます。
しおん:
この前、マラソン大会があったんですけど、途中でもうやめたくなって。でもゴールが見えてきた時は希望をもちました。
まなた(中1):
最近、学校で合唱コンクールがあったんですけど、僕はあまり歌が得意じゃなくて。でもみんなと練習しているとだんだん上手になってきて、希望を感じました。
苫野:
なるほど、いいね。他にも、もう治らないって言われていた病気の特効薬が開発された時とかも、希望を感じるよね、きっと。やっぱり、先につらさや暗さがあって、その向こうに見えてくるのが希望なのかな。
ようた:
トンネルの先の光みたいなイメージですね。
しおん:
希望が降り注ぐとも言いますよね。やっぱり光のイメージがあります。
かなこ(中2):
でも、朝ご飯の時に、「ご飯とパン、どっちを希望しますか?」みたいな言い方、しますよね? これって、あんまり光の感じがしないんですけど……。
全員:
た、確かに~。
ようた:
でもその希望と、「希望の光」って言う時の希望って、意味がちょっと違うんじゃないかな~。
苫野:
うん、でもこれが本質観取の難しさであり楽しさなんだけど、確かにどっちも同じ「希望」って言葉を使うんだよね……。かなこさんの言ってくれた例には意表をつかれたけど、もしかしたら共通しているところもあるのかもしれない。そんなことを頭の片隅に置きながら、本質観取をやっていけたらいいかもね。
キーワードを見つけていこう!
苫野:
それじゃあ、これまで挙げてきた事例、全てに共通していそうなキーワードを見つけていこうか。
にき:
「可能性」とか「願い」とか?
ようた:
「可能性」に関して言うと、絶対大丈夫な時と、絶対無理な時は、希望って言葉を使わないと思います。どうなるかわからない時に、選択肢が現れた時、僕たちは希望って言葉を使うんだと思います。その意味では、さっきの「ご飯とパン」問題も、「選択肢」という共通点があるのかも。
苫野:
なるほど~。じゃあ必ずしも最初に、絶望や暗闇みたいなのがなくてもいいのかな。
にき:
う~ん、でも希望って言葉は、やっぱりどこかやばい状況の中で使うものなんじゃないかと思います。そうじゃない時は単なる「可能性」って言うんじゃないでしょうか。
しおん:
そっか。「可能性」と「希望」って、何が違うんだろう?
かなこ:
希望は自分にとってより大きなもので、可能性は小さなかたまりって感じがします。
ようた:
確かに。あと、可能性って、よくなる可能性もあれば、悪くなる可能性もあるじゃないですか。でも希望だと、よくなる可能性しかないんじゃないかな。だから希望は、願望に向かう可能性って感じ。
苫野:
おお、見えてきたね! 希望とは「願望に向かう可能性」である。どう?
ようた:
光のニュアンスも入っているといいんだけど……。
しおん:
「願望に向かう明るい可能性」ってどうですか? さっきようたさんが言ったように、希望って、よくなるほうにしか向かわないと思うから。
全員:
いいね!
苫野:
うん、言えてる気がする。
しおん:
ちょっと思ったんですけど、「希望する・しない」と「希望がある・ない」って、なーんかちょっと違うような気がするんだけど、どう違うんだろう?
ようた:
「希望する・しない」は、願望がかなう可能性はほぼ100%で、自分で願望に近づくことができる感じ。「希望がある・ない」は、その状況の中に飛び込んでいて、可能性が開かれているのが見えたときに使う言葉かなって思います。
苫野:
うんうん、確かにそんな感じがするねえ。そういえば、希望って強弱があるよね。強く希望する場合と、なんとなく希望する場合がある。その強弱は、願望の強さに比例しているのかな。
ようた:
可能性の大小にもよる気がしますね。あまり可能性がない時のほうが、より強く希望するんじゃないかな。「ご飯とパン」は、だからあまり強い希望とは言えないですね。
全員:
確かに!
本質を言葉にしてみよう!
苫野:
じゃあここまでの対話を通して、まとめをしてみようか。
今日のまとめ
希望とは、願望に向かう明るい可能性である。
かなこ:
最初、「ご飯とパン」って、希望が小さいだけかと思っていたんですけど、可能性っていう考え方もできておもしろかったです。
まなた:
希望を見いだしたい時、僕たちは、とにかく明るい可能性を見つけようと意識すればいいんですね。
全員:
納得!
苫野:
いやー、希望のある本質観取だったねぇ!
タイトルイラスト: 霜田あゆ美
苫野 一徳(とまの・いっとく)
熊本大学大学院准教授
1980年兵庫県生まれ。熊本大学大学院教育学研究科准教授。専門は哲学、教育学。著書に『親子で哲学対話―10分からはじめる「本質を考える」レッスン』(大和書房)、『愛』(講談社)、『学問としての教育学』(日本評論社)など多数。光村図書 小・中学校「道徳」教科書編集委員。