道徳授業で哲学鍋を
2024年7月12日 更新
苫野 一徳 熊本大学大学院准教授
教育情報誌「道徳科通信」の連載のウェブ版です。「哲学鍋」とは、みんなの考えをもち寄りぐつぐつ煮込みながら、みんながおいしいと思える味(より本質的な考え)に仕上げていく営みをイメージしたものです。
子どもたちと定期的に続けている「本質観取」。今回のテーマは、「学び」とは何か?
私たちは、いったい何をもって「これは学びだなあ」と感じるのだろう?そんな本質を探り出す哲学対話の始まりです。
「学び」の本質がわかると、どんないいことがあるだろう?
苫野:
それじゃあいつものように、「学び」の本質がわかると、どんないいことがありそうか、皆さんの考えを聞かせてくれますか?
とし(高1):
しばらく受験勉強をしていたんですけど、ただ点を取るだけの勉強って感じで、これは「学び」なのかなあと思っていました。学校でやっている勉強は本当に「学び」と言えるのか、考えたいと思います。
ようた(中3):
僕は英語が得意なんですけど、学校の授業ではもの足りなくて、これって、自分に合った「学び」になってるのかなあと思っています。
苫野:
なるほど。学校での学びは本当に学びと言えるのか。もし言えない部分があるとすれば、どうすれば「学び」にすることができるのか。今回は、そんなことを頭の片隅に置きながら本質観取ができるといいかもしれないね。
これは「学びだ!」と言える事例を挙げていこう
苫野:
じゃあ続いて、これは「学び」と言えるぞっていう事例をたくさん挙げていこうか。いろんな事例を通して、「学び」に共通するキーワードが見えてくるはず。
にき(中1):
「学び」って、2種類あると思うんです。一つは、知らなかったことを知れること。もう一つは、失敗から学ぶこと。
苫野:
なるほど、確かに僕たちは「失敗から学ぶ」って言うよな~。
かなこ(中2):
化学式とか漢字をテストのために覚えている時は学んでるって感じがしないんですけど、興味のある英語の文章を読みながら、どうしてここに「a」とか「the」がつくのかなとか、自分で考えている時は学んでる感じがします。
ようた:
確かに、学びは自発的なものだよね。僕は石が好きなんですけど、川で拾った石の名前を調べます。でもすぐ忘れる。何回も調べて覚えるプロセスは学びだなあって思います。
とし:
自発性がないと「学び」じゃなくて「勉強」って感じだよね。でも一方で、道を歩いている時に新しいレストランとかを自発的に発見しても、ただそれだけじゃ「学び」とは言えないような気もします。
にき:
確かに。自分にとってどうでもいいことを発見しても、それは「学び」とは言わない。「学び」には、自分から求めていく感じがあるんじゃないかな。能動性っていうか。
キーワードを見つけていこう!
苫野:
「自発性」や「能動性」など、すでにいろんなキーワードが出てきたけど、ここからは「学び」に共通する本質的なキーワードをもう少し見つけていこうか。
たいすけ(中1):
僕は、「学び」は「生活に役に立つこと」っていう感じがします。それに対して「勉強」は、テストのためとかもっと狭い感じ。
ようた:
僕は、古文とか漢文が好きで、読んでいると「学んでるな」って感じがあるんですけど、生活に役に立つかっていうと役に立たない気がします(笑)。
たいすけ:
生活とか仕事に役に立たなくても、雑談の時に役に立つとかはありませんか?
ようた:
なるほど~。でも特にそういうことを意識して学んでいるわけでもないんだよな~(笑)。
苫野:
おもしろいね。じゃあようた君は何をもって古文や漢文を「学んでいる」って感じるんだろう?
ようた:
純粋におもしろいんですよ。
苫野:
なるほど。「おもしろい」ね。
とし:
聞いてて思ったんですけど、「生活に役に立つ」っていうのを、「生活が豊かになる」って言い換えてみたらどうですか?
全員:
おお~。それは言えてる!
とし:
僕は、生活には役に立たないけど、歴史の番組が好きです。気になることがあって見ているから、すごくおもしろい。でも、弟は全くおもしろくないと言う。これって、自分の中に「どうしてあんなことが起きたのかな」という問いがあるからじゃないかな。
にき:
すごく納得感があります。学ぶ時って、そもそも自分の中に問いがあると思うんです。でも学校の勉強は、自分が「なんでだろう」とかいう問いをもつ前に、答えがやって来るっていうか。
ようた:
それでいうと、僕は、石の名前は初めに答えがあるけど、覚えることでも学んでる気がするんだよね。これは「学び」って言える?
にき:
ようたさんは、疑問をもってる。疑問が来る前に答えが来るとおもしろくないけど、疑問の後に答えが来るとおもしろい。だから「学び」って言えると思います。
全員:
おお~。確かに!
ようた:
この本質観取はいつも学びになるなあって思うんですけど、確かに自分たちの中に問いがあって、その答えを自分たちで見つけ出そうとしてますよね。それで生活が豊かになってるなとも思う。
にき:
さっき失敗から学ぶって話をしましたけど、それも、どうすれば今度は失敗しないかって問いをもつから、やっぱり「学び」なんだなって思います。
たいすけ:
「問い」があると必ず何か気づきがあると思います。「学び」は、問いと気づきがあるからこそ「学び」って言うのかなって。
全員:
おお~。言えてる!
本質を言葉にしてみよう!
苫野:
いや~、いい言葉がたくさん置かれたね。かなり本質に迫れたんじゃないかな。出てきたキーワードを使って、「学びとは○○である」みたいに言えそうかな?
今日のまとめ
学びとは、自分自身の問いと気づきを通して、生活が豊かになっていく営みである。
苫野:
どう? みんな納得感ある?
全員:
納得!
どうすれば学校の勉強を「学び」にできるんだろう?
かなこ:
今日、本質観取をやって、学校の勉強が「学び」と思えないのは、自分の問いじゃない問いを与えられているからなんだなって思いました。
ようた:
逆にいうと、どうすれば自分の問いにできるかって考えると、学校の勉強も「学び」にできるんだよね。
全員:
確かに!
タイトルイラスト: 霜田あゆ美
苫野 一徳(とまの・いっとく)
熊本大学大学院准教授
1980年兵庫県生まれ。熊本大学大学院教育学研究科准教授。専門は哲学、教育学。著書に『親子で哲学対話―10分からはじめる「本質を考える」レッスン』(大和書房)、『愛』(講談社)、『学問としての教育学』(日本評論社)など多数。光村図書 小・中学校「道徳」教科書編集委員。