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第1回 日本人と英語との出会いはいつのこと?

英語教育 温故知新

2023年3月31日 更新

米田進 秋田県教育委員会前教育長

英語教育のこれまでとこれからを、対談形式で語ります。

花井俊太郎先生は、30代の小学校教師。低学年から高学年までの担任経験も豊富ですが、英語の授業には、少し苦手意識を持っています。
研修にも積極的に参加してきましたが、いざ授業となると、なかなか思い通りには進められません。
そこで、恩師である米田進先生に、どうすればもっと楽しく英語の授業ができるのか、相談にやってきました。
連載の第Ⅰ部「日本人の英語学習を振り返る」の始まりです――。

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花井

お久しぶりです、米田先生。退職されて、今は何をしているんですか?

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米田

今は家事手伝い見習いですよ。それはそれで大変で、毎日が修行です(笑)。ところで、勤務先の小学校ではうまくやっているかい?

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花井

ええ、まずまずです。…でも実は、今日は先生にご相談があってまいりました。

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米田

何か困っていることでもあるの?

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花井

実は、英語の授業についてなんですが、どうにもうまく進められないんです。元々英語は得意ではなかったのですが、教科書に書いてあることを読み上げたり、指導書をヒントにした活動をこなすだけで精一杯になってしまって、生徒が英語を楽しんでいないな、と感じるんです。

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米田

なるほど。確かに先生が楽しくないと、子どもたちもそう感じてしまうかもしれないね。たしか、花井くんは元々社会科が専門だったよね?

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花井

はい、大学では日本史専攻でした。

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米田

じゃあ、例えば「日本の歴史と英語」を関連付けた話を授業の中でしてみるのはどうだろう?

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花井

「日本の歴史と英語」ですか! 考えたこともありませんでした。

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米田

クラスの中には、歴史が好きな子もいるだろうから、きっと役に立つと思うよ。

 英語との最初の出会い

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米田

さて、歴史上、日本人が最初に英語に出会ったとされるのはいつだか知っているかい?

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花井

うーん、ポルトガル語ならなんとなく想像がつくのですが、英語と言われるとわからないですね。

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米田

英語圏の人ではじめて日本へやってきたとされているのは、イングランド出身の水先案内人、ウィリアム・アダムズ(William Adams, 1564~1620)とされているね。アダムズとオランダ人の航海士のヤン・ヨーステン(Jan Joosten, 1564?~1623)は、後に徳川家康(1543~1616)や徳川秀忠(1579~1632)の外交顧問として仕えるんだよ。ウィリアム・アダムズは三浦按針(みうら あんじん)という名も与えられる。三浦半島に土地を与えられ、水先案内人だったから…。

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花井

ああ!「サムライとなったイギリス人」の三浦按針ですね! それが日本人と英語との最初の出会いだったんですね。

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米田

1600年(慶長5年)にアダムズ漂着の報に接すると、徳川家康はすぐにアダムズを呼び寄せ、様々な質問を浴びせて話に夢中になったようだ。ジェスチャーを駆使しながら、ポルトガル語の通訳を介してのやりとりをしていたらしい。英語は理解できないものの、家康が「生の英語」と接したサムライの一人であったことは確かなんだ。また、1613年にはイギリスの東インド会社から派遣されたクローブ号の艦長、ジョン・セーリス(John Saris, 1579か1580~1643)が家康に謁見し、イギリス国王ジェームス一世の手紙を手渡した。手紙では日本との通商を求めていて、それ以来10年ほど、イギリスは平戸に商館をおいて細々と通商を行っていたという。

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花井

江戸幕府は1639年にポルトガル船の来航を禁止して、1641年には平戸のオランダ商館を長崎の出島に移し、いわゆる鎖国政策を取りました。それ以前のわずかな期間とはいえ、イギリスとの交流があったんですね。

フェートン号事件~ペリーの来航

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米田

時は流れて1808年、交易を認めていたオランダの国旗を掲げた英国船フェートン号が長崎港に入港し、食糧や薪水を要求した。当時の幕府は英国の軍艦を迎え撃てるような準備ができておらず、長崎の奉行である松平康英(1768~1808)はこの要求に応じるしかなく、やがて撃退できなかった責任をとり自害する。この事件をきっかけに、オランダ語の通詞(つうじ)たちは英語(とロシア語)を学ぶように命じられることになった。これが日本の英語学習の始まりと言われているんだよ。

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花井

外交交渉に英語が必要になったということですね。

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米田

その頃、アイルランドの英国軍に4年間勤務経験のあるヤン・コック・ブロムホフ(Jan Cock Blomhoff, 1779~1853)という男が、オランダ商館の副館長として赴任した。彼は通詞たちに教授するが、最初は人数も多く年齢幅も大きかったので、あまり効果が生まれなかったという。これがきっかけとなり、当時の世話役で大通詞の本木庄左衛門(1767~1822)が1811年に日本初の英語の「手引書(単語・成句・会話集)」である『諳厄利亜興学小筌(アンゲリアこうがくしょうけい)』を完成させた。1814年には英和辞書である『諳厄利亜語林大成(アンゲリアごりんたいせい)』の完成をみることとなる。「諳厄利亜」は「イギリス」のこと。これらは写本の形で幕府に献上されていて、1982年に、それぞれの影印本が複製出版されたんだ。

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花井

江戸時代に作られた英和辞典ってなんだかロマンがありますね!

2人の漂流者

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米田

さて、「日本の歴史と英語」を語る上で欠かせない人物が2人いる。2人ともウィリアム・アダムズとおなじく、「漂流者」だった。

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花井

2人のうちの1人はわかりましたよ! 幕末が舞台の大河ドラマでおなじみの…。

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米田

まあまあ、ゆっくりいこうじゃないか。最初に紹介するのは、ラナルド・マクドナルド(Ranald MacDonald, 1824~1894)という米国人。フェートン号事件から40年後、1848年に捕鯨船で北海道の利尻島に漂着した。当時、彼は23歳の若者で、スコットランド人の父親とネイティブアメリカンのチヌーク族の首長の娘である母親との間に生まれた。祖先は日本から来たと信じていた彼は、日本に行ってみようと捕鯨船に乗り込んだ。実際は北海道の沖合で捕鯨船から小舟に乗り移り、漂流者を装っていたという。彼は漂着後、松前藩から長崎に移送され取り調べを受ける。そのラナルドの取り調べに当たったのが森山栄之助(1820~1871)という人で、片言の英語と巧みなジェスチャーで意思疎通を図ったようだ。ラナルドは「英語を教えたい」との強い気持ちに溢れて辞書や地図などを持って来ており、森山の方も英語を貪欲に学び、身に付けていった。あの『諳厄利亜語林大成』を持参して、ラナルドから単語を発音してもらい、1語ずつカナを振り直したという。しかし、ラナルドの授業も正味100日ほどで終了。1849年4月、ラナルドはアメリカの軍艦に引き渡されることとなる。

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花井

ラナルドと森山の関係は、なんだか夢のような、奇跡的な出会いだったんですね。

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米田

その後、森山は1850年に『エゲレス語和解』の編集に従事し、1854年のペリー来航の際にも通詞として活躍している。

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花井

森山は、日本の歴史にとってとても重要な人物だったんですね。

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米田

そうだね。さあ、そしてもう一人の「漂流者」といえば、ジョン万次郎(1827~1898)こと中浜万次郎だ。

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花井

待ってました!

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米田

ジョン万次郎は、土佐中ノ浜出身の漁師の次男として誕生した。1841年、出漁中に漂流し伊豆諸島の最南端の無人島、鳥島でアメリカの捕鯨船に救助された。彼は幸運にもアメリカに渡り、北米の東海岸で高校まで通わせてもらい、教育を受けることができたんだ。24歳の時、10年ぶりに日本に帰国したのだが、その時は日本語をすっかり忘れてしまうほどだったという。

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花井

当時のアメリカに土佐弁が通じる人なんていないでしょうから、さぞ大変だったでしょうね。

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米田

ジョン万次郎は、ペリー来航時には表舞台に姿を見せることはなかったが、陰で支えたといわれている。その後、外交文書(英語)の翻訳者、外交顧問などとして大いに活躍したのはご存知のとおり。さらに彼は、学んだ英語(米語)を『英米対話捷径(しょうけい)』という英会話書としてまとめ1859年に世に出した。ちなみに「捷径」というのは「近道」という意味のようだね。

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花井

無人島に漂流してから、アメリカにわたって外交顧問にまでなってしまうなんて、ジョン万次郎がどれほど努力を重ねたのか想像もつきません。

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米田

花井くん、なんだか楽しそうじゃないか。

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花井

ええ、やっぱり歴史をたどったり、歴史の隙間を想像するのって、楽しいんですよね。

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米田

そうそう、そうやって先生が楽しみながら、授業をしていれば子どもたちも一緒になって興味を持ってくれると思うよ。「みんながジョン万次郎になったら、どんなふうにアメリカで暮らしていくのだろう?」って問いかけてみるのもおもしろいんじゃない?

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花井

たしかに、そういう問いかけは今まで思いつきませんでした!

(つづく)

米田進(よねた・すすむ)

秋田県教育委員会前教育長

1951年秋田県生まれ。東京外国語大学外国語学部英米語学科卒業。秋田県立高等学校教諭・校長等を経て、2011~2020年度まで秋田県教育委員会教育長。

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