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第2回 日本の開国、近代化と英語

英語教育 温故知新

2023年5月18日 更新

米田進 秋田県教育委員会前教育長

英語教育のこれまでとこれからを、対談形式で語ります。

花井俊太郎先生は、30代の小学校教師。低学年から高学年までの担任経験も豊富ですが、英語の授業には、少し苦手意識を持っています。
研修にも積極的に参加してきましたが、いざ授業となると、なかなか思い通りには進められません。
そこで、恩師である米田進先生に、どうすればもっと楽しく英語の授業ができるのか、相談にやってきました。
(前回の記事はこちら

ペリーの来航と開国、そして英語

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花井

米田先生、前回は日本における最初の英語との出会いや、徳川家康の時代からジョン万次郎までの日本人と英語との関わりについて教えていただきました。日本が開国して近代化が進んでいく中で、英語はどのような役割を果たしたのでしょうか。

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米田

まずは、日本の近代化への道を開いた大きな事件からたどっていこうか。1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794~1858)が率いる軍艦、いわゆる「黒船」4隻が浦賀に来航した。ペリーが持ってきたフィルモア大統領(Millard Fillmore, 1800~1874)からの国書にある要求は、石炭などの物資の補給、通商の開始などについての条約を日本と結ぶことにあった。

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花井

「黒船」は、今でも色々な比喩で使われますよね。

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米田

そうだね。当時の日本で英語の通訳として最も頼りにされていたのは、かつてラナルド・マクドナルドの取り調べを担当し、彼から英語を学んだ森山栄之助だった(第1回を参照)。しかし、ペリー来航時には森山は長崎にいた。しかもそのときの長崎にはロシア船が来ており、その対応にも追われていた。

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花井

まさに動乱の時代ですね。

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米田

そこでペリー一行に相対することになったのが、堀達之助(1823~1894)という人だった。彼は浦賀奉行配下のオランダ通詞で、このとき30歳。堀は浦賀奉行所与力である中島三郎助(1821~1869)とともに小船に乗り、旗艦サスケハナに近づいていく。伝えるべきことは「長崎へ行け」ということだった。当時は外国船が来た場合、速やかに長崎に向かわせることが義務であったという。堀はオランダ語を使って意思疎通を図ろうとするが、うまく伝わらない。彼らは「エイゴ」を使うようだと知った堀は、艦隊に向かい大声で叫ぶ。“I can speak Dutch!” これは、他の表現を使ったという説もあるらしいが…。いずれにしても堀は、「オランダ語でなら…」ということを訴えたかったのだろう。

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花井

決死の叫びですね。オランダ語が通じないとわかったとき、堀はさぞ肝を冷やしたでしょうね。

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米田

結局、幕府はペリーらを長崎に向かわせることはできず、国書を正式に受け取り、翌年に回答することを約束して一旦日本を去らせることになる。ペリーは翌年(1854年)1月、7隻からなる艦隊とともに再度来航して条約の締結を迫り、3月に日米和親条約が締結された。森山栄之助が主席通訳、堀達之助が補佐を務めて交渉にあたったという。そのときの森山栄之助の英語力は、米国人を驚かせたようだ。

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花井

ここで前回の話にも出てきたラナルド・マクドナルドとのやり取りが生きてくるんですね!

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米田

そう、歴史の点と点がつながってくるポイントだね。けれども実際のところ、正式な交渉に際してはオランダ語で綿密にやり取りを行っていたようだ。森山は、より自信のあるオランダ語を使うことの重要性を感じるとともに「その方がフェアであろう」と考えたと推測されている。なお、ペリーの来航については、横浜開港資料館に行くとさまざまな資料があって、面白いと思うよ。

福澤諭吉の英語との出会い

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花井

ペリー来航以降、日本は急速に開国と近代化への道を進むことになりますね。

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米田

日米和親条約のあと、1858年に日米修好通商条約が調印される。この条約により下田、箱館港のほか、神奈川(横浜)、長崎、新潟、兵庫の港を開くことになった。

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花井

明治維新まであと少し、という不安定な時期でした。

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米田

さて、幕末の時代を生き、のちの日本の英語教育にとって大変重要な人物である福澤諭吉(1835~1901)について紹介しよう。

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花井

子どもたちにとっては「1万円札の人」ですね。あ、でももうすぐ変わるか。

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米田

1859年、横浜を訪れた福澤諭吉は、オランダ語を学んでいたので、道行く外国人にオランダ語で話しかけてみた。しかし、これが通じなかったんだね。張り紙に書いてあることも分からず、福澤は大変な衝撃を受けたという。世界ではオランダ語よりも英語の方がはるかに使われていることを知り、これからは英語が必要になると思った福澤は、一念発起し英語を勉強することを決意した。さっそく森山栄之助を訪ねるが、多忙な森山から学ぶことはできず、独学で学ぶことになった。

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花井

福澤も、独学で英語を学んでいこうとするのですね。

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米田

『サムライと英語』(明石康ほか著、角川oneテーマ21)という本によると、福澤の勉強法についてこんな記述がある。「長崎から来た子供が英語を知っていると聞くと、その子のもとへ足を運び、発音を学んだ。漂流者で帰国した者があると聞くと、その宿屋に尋ねて聞いてみた。読み書きは英蘭辞書を使えば何とかなるが、発音だけは知っているものから教わらざるを得ない。諭吉は、学習の機会を得るためには労力を惜しまなかった。」。

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花井

すごい努力ですね…。そして、福澤諭吉でも英語の発音には苦労させられたのだと思うと、少し安心したような気になります。

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米田

その後、1860年に福澤は幕府の遣米使節の一員として咸臨丸で渡航する。その時のエピソードは『福翁自伝』(岩波文庫ほか)で紹介されているよ。そして1868年、彼が33歳の時、以前に江戸・築地に開いた蘭学塾を現在の東京都港区の芝に移し、慶應義塾(現在の慶應義塾大学)を開くことになるんだね。

幕末から明治初期の英語学習フィーバー

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米田

さてさて、1858年に結ばれた日米修好通商条約による神奈川(横浜)、長崎などの開港の結果、日本に外国人が多くやって来るようになった。それが大きなきっかけとなり、英語学習フィーバーが興り、多くの英語塾も創設されたらしい。

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花井

なんと、この頃から英語塾ができていたんですね。

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米田

外国人居留地のある港町での実用的な英語の需要が高まるなかで、型破りな英語も見かけられたようだ。床屋の看板に “Head Cutter” と書いたり、記念写真のことを、葬式の時に撮る写真を思わせる “Memorial Picture”と言ったり…。

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花井

うーん、いわゆる「カタカナ英語」のはしりみたいなものですかね。

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米田

この時代の横浜を舞台にした、こんな笑い話もある。ある横浜の商人が、得意先の英米の商人を祝宴に招いた。食事の準備が万端ととのったところで、応接室で談笑している彼らのもとへ燕尾服を着て堂々と現れ、咳払いをして一言。「プリーズ イート ネキスト ルーム、バット、ゼーア イズ ナッシング イート」。これが居留地で話題にのぼり、宴会の席の度に「次の部屋を食べる」というのが大流行したという(前出『サムライと英語』参照)。

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花井

私はその横浜の商人を笑えないかもしれないです…。

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米田

ハッハッハ。基本的な英文法や単語の知識は、いつの時代にも必要だね。さて、明治初期には外交官や商人、キリスト教の宣教師たちの来日が相次いだ。名前がよく知られている人では、ハリス(Townsend Harris, 1804~1878)、サトウ(Ernest Satow, 1843~1929)、そしてヘボン(James Curtis Hepburn、1815~1911)などがいるね。

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花井

3人とも、名前は聞いたことがあります。

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米田

ハリスは『日本滞在記』、サトウは『日本における一外交官』(ともに邦訳は岩波文庫)を残し、ヘボンは約8年に及ぶ苦労を重ね、1867年に『和英語林集成』を完成させる。この辞書の第三版では日本語はローマ字で表記されており、いわゆるヘボン式ローマ字として現在も使われている。ローマ字は、現在は小学校3年の国語で扱っていて、教科書にも掲載されているね。

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花井

はい。小学校3年生の国語で主に扱うのはいわゆる訓令式ローマ字ですが、教科書にはヘボン式の表記も紹介されています。明治初期には、西洋の学問・技術の導入のため、数多くの外国人教師が日本にやって来たんですよね。

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米田

そうだね。法律や建築、医学や美術など、日本の近代化を支えた人物たちがこの時代に多く来日している。それから、地方の旧制高等学校や専門学校、そしてミッション系などの学校にも多くの優れた外国人教師たちがいたということも、忘れてはならないだろう。

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花井

まさに歴史の転換期という感じがしますね。

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米田

うん。1870年代、明治初期の英語教育は外国人教師によるものが主流で、授業は英語で行われたんだ。しかし、1880年代に入ると状況は変化してくる。国家としての体制ができあがってくると、日本語や日本の文化を大事にすべきであるという考えも出てきた。また、英語を通さなくても西洋の学問を学ぶことができるようになっていった。

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花井

日本の近代化が進んだということですね。

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米田

政府も方針転換していって、海外に留学させていた帰国生を英語の指導者として活用することになり、招いていた外国人教師を減らしていくこととなる。結果的に発音・音声を重要視する「正則(せいそく)英語」より、訳読を中心とする「変則(へんそく)英語」が勢力を増してくる。英語は「実用のために学ぶ」というよりも「教養として学ぶ」ものという傾向が出てきたということでもあるのかもしれないね。

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花井

なるほど、ここから日本での英語学や英文学の分野が発展していったというわけですね。

米田進(よねた・すすむ)

秋田県教育委員会前教育長

1951年秋田県生まれ。東京外国語大学外国語学部英米語学科卒業。秋田県立高等学校教諭・校長等を経て、2011~2020年度まで秋田県教育委員会教育長。

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