下村 健一(ジャーナリスト)
2014年8月1日 更新
下村 健一 ジャーナリスト
このコーナーでは、教科書教材の作者や筆者をゲストに迎え、お話を伺います。教材にまつわるお話や日頃から感じておられることなどを、先生方や子どもたちへのメッセージとして、語っていただきます。
小学校「国語」教科書に「想像力のスイッチを入れよう」を書きおろしていただきましたが、情報の受け取り手として、想像力を働かせるための四つの観点(※)が示されていますね。
ええ。この四つの観点を、僕は普段、「四つのハテナ」と呼んでいます。これは、報道の世界での四半世紀にわたる体感から生まれたものです。
何かを報道すると、必ず視聴者からの反応が来るんですが、本当に、自ら報道の主流の論調に乗りたがる方が少なくありません。僕が番組で「まだ彼が犯人かどうかわかりません」と発言すると、「どうして下村は犯人をかばうんだ!」といった抗議がワーッと来るという感じです。見解が分かれるような問題を両論併記で伝え、「これは、皆さんに考える材料を提供しているんです」と言えば、今度は「答えを教えろ!」という抗議が来る。
そういうことをずっと経験してきて、「これは、みんな、情報の受け止め方を勉強しないと本当にまずいな」と感じるようになりました。
TBSを辞めてフリーになった後も、その思いは消えませんでした。2000年から、BS放送の学生ラジオ局「BSアカデミア」(すでに終了)で、大学生によるニュース番組作りのアドバイザーをしていたんですが、そのときも同じことを感じました。学生たちは、インターネット上に書かれていることをそのままコピー&ペーストして自分の原稿にしようとする。「これ、確認は取ったの? インターネットにあるからといって、事実とは限らないんだよ」と言うと、「あっ、そうなんですか?」という言葉が返ってくる。せめて「あっ、そうか」と言ってくれよと。これはいよいよ危険だと感じるようになりました。そうやって、学生たちにいろいろなことを話していくなかで、だんだんとこの「四つのハテナ」に整理されていったように思います。
- ※ 四つの観点 「事実かな、印象かな。」(1)、「他の見方もないかな。」(2)、「何がかくれているかな。」(3)、「まだ分からないよね。」(4)の四つ。下村さんは、それぞれの文末に「?」を付け、「四つのハテナ」と呼ぶ。なお、2020年度からの教科書では、この順序が一部変更になった。詳しくは、こちら。
今回は、下村さんのそんな思いを小学生に向けてお書きいただいたわけですが。
子どもたちに、メディアの受け止め方について伝えられるチャンスをいただけたのはうれしかったですね。ただ、そこからが大変でした。これまで僕は、ともかく具体例を使って説明するということを方針としていました。実際にあったニュースを例にして伝えるからこそ、気づきがあるんです。
でも、小学生が授業の中で読むものですから、あまり具体的なニュースの例を示してしまうと、中身にばかり気をとられて、例を通して伝えたいことが伝わりにくくなってしまう。どう書けばいいだろうと試行錯誤を繰り返して、最終的には、全くの架空の事例を示すことにしました。小学校5年生の子どもたちにとって、わかりやすい説明になっているといいなと思います。
今日、見せていただいた大学の講義でも「四つのハテナ」について述べていらっしゃいましたね。
情報をうのみにしないだけでなく、その情報のどういう点が正しいのかを嗅ぎ分けるときにも、「四つのハテナ」が有効です。あふれる情報の中から何が正しいのかを「見抜く」ためには、それなりの知識が必要で、その壁に直面して思考をあきらめてしまう学生が多い。でも、知識がなくても、即座にうのみにせずに「保留する」ことはできるでしょう。
だから講義では、まずは四つ目の「まだわからないよね?」という態度を身につけようと、学生たちに話しています。そのうえで、一つ目から三つ目までの「事実かな、印象かな?」「他の見方もないかな?」「何が隠れているかな?」を、ゆっくりと身につけていこうと。今日もそんなふうに話したつもりです。
こうして保留を勧めると、抵抗感を覚える人がいますが、僕たちは普段、もう揺るがないような最終判断、つまりファイナルアンサーを日々出し続けていく義務などないでしょう? その日までに自分が接した情報をもとにしてその日の仮判断をし、次の日には、また次の日の仮判断をすれば十分です。
関連情報を全てインプットして下される絶対的な最終判断がある、というのは幻想です。僕たちには常に、「今日の」「自分の」仮判断しかないんです。それを営々と積み重ねて、最終判断なんてしないままに人間は死ぬんですよ。
最終判断をして取るべき行動を決めなければいけない。必ずしもそう考える必要はないということですか。
「必要ない」というより、それは人間には「できない」ことでしょう。もちろん、現実に重大な行動の判断に迫られる場面は、人生に何回もあります。でも、そんなときですら、僕らは「その時点での最新の判断」を下しているにすぎません。新しい情報が入ってきたら、それに基づいて判断はまた変えられます。
判断を固定してしまう危うさ、保留の大切さを僕が強く感じたのは、1996年、アトランタのオリンピック記念公園で爆弾事件が起きたときです。オリンピック開催中の公園で爆弾が爆発し、死傷者が112名にも上る大事件でしたが、このとき、米国メディアと社会は鮮やかな“仮判断の修正”を見せました。
まず、事件発生の3日後、爆弾の第一発見者である現場警備員の人を犯人だと決めつけるような報道が始まりました。米国社会は暴走したんです、いったん。国の威信をかけたオリンピックを絶対に成功させないといけないのに、爆弾事件によってプライドを傷つけられた。なんとしても早急に犯人を捕まえなければならないと、みんなが判断を急いでしまった。それがこの事件の第一幕でした。
僕は当時、TBSのニューヨーク支局に赴任しており、米国のテレビニュースを毎日見ていました。事件の12日後、それまでさんざん「警備員が怪しい」と言っていたCBSのニュースキャスターが、しれっと「FBIは、他の可能性を考えている」とスクープしました。その態度があまりに平然としていたので、僕や他の日本人スタッフはみんな違和感を覚えました。警備員の誤報を速やかに正すのはいいけれど、「そんな態度でいいのか。まずは謝れよ、キャスター!」と。でも、支局のアメリカ人スタッフは誰一人として違和感など抱かなかった。「新しい情報を伝えているのに、なぜ今、謝る必要があるの?」と、彼らは日本人スタッフの反応にきょとんとしていました。
「間違っていた情報を正す」のではなく、「新しい情報を伝える」という感覚なんですね。
ニューヨーク・タイムズをめくれば、2面の下半分に、前に報じたことの訂正がずらっと列挙されていることがよくあります。だからといって、誰も「ニューヨーク・タイムズは信用できない」なんて言いません。過ちのページではなく、新情報の載っているページだと受け止める。
つまり、米国社会にはもとより、メディアがファイナルアンサーを伝えているという絶対視の意識が日本より薄いんでしょうね。四つ目のハテナ「まだわからないよね?」という保留感覚が、無意識のレベルで根っこにある。その結果、米国社会は、メディアが挙げたこぶしの下ろさせ方が、軽やかなんです。「間違った」と思った瞬間に直すことを、すんなり認めるんですから(訴訟対策は、また別の話ですが)。
対照的に、日本社会では、メディアには無謬神話があって、「絶対に間違えないもの」「正しいことを教えてくれるもの」だと思われてきた。福島原発の事故以降、少し揺らいでいますが、まだまだこの無謬神話は強固です。社会がそうだから、メディア側もそれを自ら崩すわけにはいかず、なかなか訂正ができなくなってしまう。挙げたこぶしの下ろし方がわからず、軌道修正が遅くなるという実害が出ています。
現実社会では、みんなが、実はその日の仮判断で行動を決めていて、それでなんの不都合もなく社会は動いているんです。明日違う情報を得て、今日と考えが変わったって、全くオッケーなんです。それがリアルなのに、なぜかニュースを見ると保留ができず、最終判断を急いでしまう。四つ目のハテナ「まだわからないよね?」を実践せよと説くのは、少しも無理な理想論ではないんです。
Photo: Shunsuke Suzuki
小学校国語5年「想像力のスイッチを入れよう」
下村 健一 [しもむら・けんいち]
1960年、東京都生まれ。東京大学法学部政治コース卒業。1985年TBSに入社、報道局アナウンス班に所属。現場取材、リポーター、キャスターとして、「スペースJ」「ビッグモーニング」などで活躍。1999年TBSを依願退社。以後、TBSテレビ「筑紫哲也 NEWS23」「みのもんたのサタデーずばッと」等に出演を続けるいっぽう、市民グループや学生、子どもたちなどのメディア制作を支援する市民メディア・アドバイザーとして活動。2010年秋から2年半、民主・自民の3政権で内閣官房審議官等として総理官邸の情報発信を担う。東京大学客員助教授、慶應義塾大学特別招聘教授、関西大学特任教授などを経て、現在は白鴎大学特任教授。令和メディア研究所主宰。インターネットメディア協会理事。著書に『窓をひろげて考えよう』(かもがわ出版)、『想像力のスイッチを入れよう』(講談社)、『答えはひとつじゃない!想像力スイッチ1~3』(汐文社)など。 ※プロフィールは、2021年1月現在の情報です。