道徳授業で哲学鍋を
2024年12月3日 更新
苫野 一徳 熊本大学大学院准教授
教育情報誌「道徳科通信」の連載のウェブ版です。「哲学鍋」とは、みんなの考えをもち寄りぐつぐつ煮込みながら、みんながおいしいと思える味(より本質的な考え)に仕上げていく営みをイメージしたものです。
子どもたちと定期的に続けている「子ども本質観取の会」。今回のテーマは、「ゆるす」とは何か? とても深く、難しいテーマですが、見事な本質観取をすることができました。
「ゆるす」の本質がわかれば、どんないいことがあるだろう?
苫野:
じゃあいつものように、「ゆるす」の本質がわかれば、僕たちにとってどんないいことがありそうか、ちょっと考えてみようか。
りんか(小5):
人をゆるすことができれば、穏やかな気持ちになれるんじゃないかと思います。
全員:
あー、確かに。
苫野:
いいね。僕たちは、どうすれば人をゆるすことができるんだろうか。そんなことを考えながら、今日の本質観取をやってみようか。
「ゆるす」の事例を挙げていこう
苫野:
じゃあ、自分はこんな時に人をゆるしたな、あるいはゆるされたな、という経験をたくさん挙げていこうか。たくさん事例が集まると、そこに共通するキーワードが見えてくるはず。
しおん(中2):
学校から帰ってきたら、冷凍庫に入れていたアイスがなくなってたんです。お母さんが食べちゃってて、その時はすごく腹が立ったんですけど、我慢してゆるしました。
ちはや(小4):
あー、よくある事件だ。その時はどうしてゆるせたんですか?
しおん:
「また買えばいいか」って思えたからかな。
苫野:
なるほど。逆に言うと、それが取り返しのつかないことだったら、ゆるすことも難しくなるのかもしれないね。
にき(中3):
それで言うと、ケンカした時、相手の理由がわかればゆるすことができますね。
こうた(小6):
僕は、ケンカして、相手がちゃんと謝ってくれた時もゆるせました。
苫野:
相手の立場がわかること。謝罪があること。うん、これも「ゆるす」の大事な条件だね。
りんか:
弟とよくケンカするんですけど、いちいち怒るのが面倒くさくて、「もういいや」ってなってゆるすこともあります。
ちはや:
なるほどー。でもそれって、ゆるしてるのかな。ただ諦めただけとか?
かりん(小4):
ケンカしたことを忘れて、「もういっか」ってなることもありますよね。
りゅう(小4):
時間がたつと、ゆるせることもありますよね。
苫野:
あるある。単に諦めただけとか、あるいは忘れただけとか、それも「ゆるす」と言えるかどうかは、ちょっと考えてみるとおもしろそうだね。
かのん(小5):
実は、私の友達が先生に暴力を振るわれたことがあるんです。それが今もゆるせないって思ってます。
苫野:
それはゆるせないね。そしてそれは興味深い例だね。僕たちが「ゆるせない」って思うのは、自分だけでなくて、人が何かされた場合もあるんだね。
キーワードを見つけていこう
苫野:
じゃあ、これまで出てきた事例から、そのどれにも共通しそうなキーワードを見つけていこうか。
かのん:
何かに対して、まず怒りがあるんだと思います。
全員:
確かに。
りんか:
怒りだけじゃなくて、悲しい場合もあるんじゃないですか?
全員:
言えてる。
しおん:
その怒りとか悲しみを、収めようって自分で意識するとゆるせますよね。笑うから楽しい、っていうのと同じで、ゆるすから心が平和になる、みたいな。
全員:
おおー。
ちはや:
「ゆるす」は、自分でゆるすと決める、ってところはあるよね。決意するとか、意志するとかっていう感じ。
苫野:
いいねいいね。そう考えると、さっき出た「諦める」とか「忘れる」とかは、「ゆるす」とちょっと違う気がするけどどうだろう?
こうた:
やっぱり、自分で決める、意志する、というのは大事なことなんじゃないかと思います。
りんか:
そういえば、ゆるすって、「許す」と「赦す」と二つあるじゃないですか。同じじゃないですよね?
全員:
あー、確かに。
苫野:
「赦す」のほうが、より深い罪や過ちをゆるすって感じがするね。
りゅう:
どっちにしても、自分で「納得」して決めてる感じがあります。
こうた:
あー、「納得」か。これも大事な気がしますね。
かのん:
あの、一徳さんは、ふだん何かをゆるせないって思うことないですか?
苫野:
そうだねえ。実はこの年になると、誰かをゆるせないって思うことがほとんどなくなったんだよね。余裕が出てきたというのもあるのかな。なんでも受け入れられるっていうか。
かりん:
「受け入れ」って大事な言葉だと思います。「ゆるす」には必ずあるんじゃないかな。
りゅう:
さっき僕は「納得」って言葉を出したんですけど、「受け入れ」と「納得」って、何が違うんだろう?
かりん:
「納得」より「受け入れ」のほうが深い気がします。
りゅう:
確かに。「ゆるす」にも、軽く納得するレベルから深く受け入れるレベルまで、レベルがあるんですね。
苫野:
確かに。いやー、いい発見がたくさんあったね。ひとまずここまでを言葉にすると、こんな感じになるかなぁ。
今日のまとめ
「ゆるす」とは、怒りや悲しみを、納得し、受け入れると自分で決めることである。
苫野:
どうかな?
りんか:
人を受け入れてゆるせるようになるためには、自分のスペースを広げないといけないなーと思いました。
苫野:
本当だね。それはすごくいい発見だね。
苫野:
最後に、感想を言いたい人がいれば聞かせてくれるかな。
こうた:
自分一人では絶対考えられなかった発見がたくさんできたのが楽しかったです。
かりん:
今日は1時間だけだったけど、思い切って3~4時間やりたいと思いました。
苫野:
いやー、本当だね。まだもっと深めたい気持ちも残るよね。でも、短い時間でよくここまでたどり着けたと思います。今日も皆さん、ありがとうございました。
全員:
ありがとうございました!
タイトルイラスト: 霜田あゆ美
苫野 一徳(とまの・いっとく)
熊本大学大学院准教授
1980年兵庫県生まれ。熊本大学大学院教育学研究科准教授。専門は哲学、教育学。著書に『親子で哲学対話―10分からはじめる「本質を考える」レッスン』(大和書房)、『愛』(講談社)、『学問としての教育学』(日本評論社)など多数。光村図書 小・中学校「道徳」教科書編集委員。
- このシリーズの目次へ
- 前の記事
-
次の記事