子どもの頃に
出来なかったこと
森 絵都
作家
子ども時代のあの頃に出来なかったことを綴っていきます。
森 絵都(もり・えと)
1968年東京都生まれ。90年『リズム』で講談社児童文学新人賞を受賞しデビュー,同作品で椋鳩十児童文学賞を受賞。その後,『宇宙のみなしご』で野間児童文芸新人賞,産経児童出版文化賞ニッポン放送賞を受賞。『アーモンド入りチョコレートのワルツ』で路傍の石文学賞,『つきのふね』で野間児童文芸賞,『カラフル』で産経児童出版文化賞,『DIVE!!』で小学館児童出版文化賞,『風に舞いあがるビニールシート』で第135回直木賞を受賞。絵本テキストに『ぼくだけのこと』(偕成社),『おどるカツオブシ』(金の星社),『オニたいじ』(金の星社),『希望の牧場』(岩崎書店),近作に『クラスメイツ』(偕成社)など幅広く活躍。
第4回 針の穴
2015.06.25
小学5年生の頃,おなじクラスにSくんという頭の良い男の子がいた。
成績優秀。剛毅果断。才気煥発。彼はすべてにおいて「出来るヤツ」で,当然のように学級委員長を務めていた。体型は若干太めながら顔もまずまず,兄貴肌で面倒見がよく,クラスメイトからの信望も厚かった。
そのSくんの足を,私はなんとかして引っぱりたかった。
なにかと意見が衝突する。どちらも引かず口ゲンカへと発展する。私にとってSくんはそんな存在だった。そして,頭の良い子の常として,Sくんは口が達者で,言葉で相手をねじふせるのが好きだった。
おのずと,ねじふせられる側の胸には暗い欲望が溜まっていく。
「この出来るヤツをぎゃふんと言わせたい」
実際,友達と一緒にせっせと作戦を練り,罠をしかけたこともある。
空き地のとなりに住んでいた私にとって,罠というのは十中八九,落とし穴を意味していた。いったい幾つの穴を堀ったか思いだせないほどだが,Sくんだけは一度として引っかからなかった。
勉強も運動神経もかなわない。
口でも勝てない。
落とし穴にも落ちない。
とにかく食えない宿敵,S――
しかし,ある日,ついに私は完全無欠男子の弱点を見たのである。
家庭科の授業中だった。男子も女子も一緒に教室で裁縫に挑んでいた。たしか巾着袋のようなものを縫っていたように思う。
皆が黙々と針を運ぶなか,どうもSくんの様子がおかしい。私が異変に気づいたときには,すでにSくんは顔を真っ赤にし,ぎりぎりまで追いつめられた状態にあった。
「できない。できない。できない」
針の穴に糸が通らないのだ。
そう,落とし穴には強いSくんも,針の穴には弱かった。ぷっくらとした彼の手のなかでは,針も糸もひどく頼りないものに見え,その両者が頑として連携を拒んでいる。
「やってあげるよ」
見かねた隣席の子が手をさしのべても,Sくんはいやいやと首をふる。
自分には出来るはずなのだ。針や糸ごときに負けるわけがないのだ。この俺が!
焦れば焦るほど,逆に,指先が震えてコントロールがきかなくなる。
やがて,思いがけないことが起こった。
Sくんがひくひくと泣きはじめたのだ。
――あのSくんが泣いてる。針の穴に糸を通せないだけで。
男の子って,なんておかしなことで泣くんだろう。
私はびっくり仰天した。
そして,その瞬間から,Sくんをほんのり好きになった。
目次
目次へ「みつむらweb magazine」の更新情報,著者の方々に関連する情報をお届けします。
くるくる回る風車と一緒に,光村図書の歴史をたどります。