メニュー

英語をめぐる冒険

金原 瑞人

翻訳家・法政大学教授

翻訳家として,大学教授として,日々英語との関わりの中で感じるおもしろさ,難しさを綴ります。

金原瑞人(かねはら・みずひと)

1954年岡山県生まれ。翻訳家,法政大学社会学部教授。法政大学文学部英文学科卒業後,同大学院修了。訳書は児童書,一般書,ノンフィクションなど400点以上。日本にヤングアダルト(Y.A.)というジャンルを紹介。訳書に,ペック著『豚の死なない日』(白水社),ヴォネガット著『国のない男』(NHK出版)など多数。エッセイに,『サリンジャーに,マティーニを教わった』(潮出版社)など。光村図書中学校英語教科書「COLUMBUS 21 ENGLISH COURSE」の編集委員を務める。

第7回 1行1文字の縦書き

2015.09.30

前回,「『こばた』『まやちかちか』『ギララア』その他は,右から左に横に書かれているが,これは横書きではない。その話は次回また。」と書いたので,その続き。

日本語学者たちは,これは横書きではなく,「1行1文字の縦書き」と考える(らしい)。たしかに,昔のいろんな書き物をみていると,1行2文字というものもある。上下に余裕がなかったのだろう。となれば,さらに余裕がなくなれば,1行1文字になる。

まあ,「こばた」「まやちかちか」を書いた当人がどう考えたかはわからない。1行1文字の縦書きを書いているのだと思って書いたのかもしれないし,右から左への横書きのつもりで書いたのかもしれない。そのへんは確かめようがないのだが,このように横に並べて書いたものが2行以上並んだものは,ほとんどない。右から左への横書きという発想があったら,2行,3行,いや,40行,100行にわたる文章があっておかしくないのだが,これがない。ヨーロッパの英語や仏語や独語はいうまでもなく横書きがずらずら並んでいる。

そう考えると,たしかに,「こばた」は1行1文字の縦書きというのも納得がいく。

挿絵,猫と翻訳家

ただ,いま手元にある「キング」という雑誌の昭和6年の号の裏表紙には「水顔美」の広告が載っている。この広告には下のほうに,「ビキニ」とあって,その下に「に物出吹」と2行にわたって書かれている。「ニキビ,吹出物に」と読むらしい。化粧水の広告で,「蚤蚊南京虫,その他毒虫等にさゝれた時にもよく効きます」と小さく縦書きで添えられている。当時の化粧水,恐るべしである。

こんな例もあるものの,右から左へ書いた行を重ねることはほとんどなかった。

日本語の場合,横書きで行を重ねるようになったのは,いうまでもなく,左から右へ書く横書きだった。

こんなことをいったいだれが始めたのか。それについては諸説あるが,創始者のうちのひとりがヘボン先生であったのは間違いない。

ヘボン先生は本名を,ジェイムズ・カーティス・ヘップバーンという。アメリカの宣教師で,幕末,医師として日本にやってきて,その後,キリスト教の布教と英語教育に貢献した。ヘボン先生が編訳したのが『和英語林集成』というタイトルの和英辞典。1867年に初版が出ている。この和英辞典の表記は現在の和英,英和辞典の表記とほとんど同じだ。

手元にある1872年の第2版の最初のページから引用してみよう。

ABUKU,アブク,泡,n. Bubbles, froth, foam. (coll. for Awa) Midzu no ―.

この和英辞典の日本語のアルファベット表記にちなんで,現在よく使われているローマ字をヘボン式ローマ字と呼んでいる。

ただし,この表記法がすぐに日本全国に浸透したわけではなく,和英,英和辞典,英会話の表記法には様々なものがあった。それはまた次回。

さて,「美国 平文先生(アメリカ ヘボン先生)編訳」の『和英語林集成』についてもう少し書いておくと,この辞典は活版で印刷されているのだが,当時の日本にその技術はなかったので,上海で印刷された。そのとき,ヘボン先生といっしょに上海にいって,日本語の仮名の活字を作らせたのが岸田吟香。のちに明治を代表する洋画家となった岸田劉生の父である。

Illustration: Sander Studio